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1 今の百人町を内から見てみると
 百人町教会をご存知の方から「変わった教会」だと聞くことが度々ある。どこが変わっているのかと聞くといろいろと答えが返ってくる。百人町教会は本当に変わりものなのか。確かに変わったところはいろいろある。その一つはこの文章を書いている私自身、韓国生まれ、韓国育ちの人間であるが、訳あって1992年2月末に来日し、1997年から百人町教会の牧師になったのである。言わば舶来品である。しかも、欧米産ではなくアジア産というのはどこか違う感じがするだろうと思う。又、信徒宣教師としてフィリピン人のセサール・サントヨ(Cesar Santoyo) さんが私たちの仲間である。彼は日本に来ている多くのフィリピン人のサポートやケアーをしている。ナン・ハドソン(Nan Hudson) さんはカナダ合同教会の牧師で在カナダでの百人町教会の協力牧師で、百人町教会の宣教活動をカナダで伝えてくれている。そのほか、韓国の蚕室中央教会と1979年から姉妹関係を結び、毎年交互の場所で合同修養会を行っている。1999年にはその20年間の交流をまとめて新教出版社から『東アジアの平和とキリスト教』を出版している。勿論、百人町教会の日本人メンバーの一人ひとりも大変個性的である。ということで百人町教会の礼拝や集会はいろんな国の人と一緒にすることが多い。
 百人町教会が変わっているという場合、一般的にはハード部分とソフト部分を分けて考えることが多いが、百人町教会はハード部分をほとんど持っていない。というのは、百人町教会は持ち物がほとんどないからである。礼拝堂もなく、教会の持ち物があるとすれば、聖書と讃美歌、そして1978年から使っているリードオルガンだけである。そのリードオルガンも、もとは携帯用オルガンで、外枠がベニヤ板の箱型のシンプルなものである。ハードなものを持っていないため、集会というソフト部分をより大切にしているといえるだろう。
 礼拝の場所は、年に2-3回は修養会や永眠者記念礼拝などで教会がそのまま移動、礼拝の場所が変わる。日曜日毎にテーブルや椅子を並べ変えるが、その並べ方はロの字や五角形のように、なるべく皆の顔が見えるような形で配置する。そこには講壇もなく、十字架のような飾り物も一切ない。従って、司会者をはじめ皆はどこに座っても構わない。
 主日礼拝の他にも百人町教会には様々な集会があるが、その特徴は時間的に長いことだ。家庭集会、聖書研究会、韓国語聖書研究会、受難週家庭集会などがあるが集会の時間は平均3-4時間である。全ての集会が食事つきである。食事を作る時間まで入れるともっと長くなる。全ての集会に出席したとすれば、年間100回ほど一緒に食事をすることになる。このことは端的に言えば教会員の間に交わりの時間が長いことだ。しかし、唯の交わりではなく、共に作り、共に食べ、全員が持ち回りで発表し、共に話し合い、考えを共有するのである。
 主日礼拝は日曜日の午前10時半に始まり大体午後1時頃に終わる。勿論話の時間は長い。大体の場合30分から1時間程度である。しかし、礼拝中に居眠りする人はそれほどいない。というのは、まず「説教」という言葉がなく、代わりに「証詞」という言葉を使っている。そして、一人の牧師が毎回説教をするのではなく、隔週毎に教会関係者全員が持ちまわりで証詞をし、隔週毎に主任牧師が証詞を担う。ちなみに、証詞を行うのは「教会員」だけではない。百人町教会に縁あって集うすべての人々である。教会の仲間達は3-4年に一度、自分の生き方や信仰について語るようになる。従って、出席者はいつも違う人の話を聞いているようであろう。牧師はいろんな人から多くの事を教えられる。
 その上、話された内容について礼拝の中で、皆で応答を行うのがもう一つの変わったところである。この応答の内容とは基本的に礼拝で話されたことに対する感想や質問、或いは批判をも含むが、時事的なテーマで盛り上がることも度々ある。そしてこの応答を通してその日の話が具体的に各自の中で消化できるようになる。語り手の一方的な話の場合消化不良になることが多いと思うが、このスタイルであれば話が上手でなくても応答を通じてその内容を充分理解する。皆が話し合い、理解しあい、決断し合うことができる。
 因みに、この応答的スタイルは週報にも現れている。週報は縦B4の用紙であるがそれを四等分し、上の部分は左側が礼拝の順序、右側が集会案内や報告、下の部分は左側に牧師日誌、右側に会員日誌が並ぶ。この会員日誌は教会関係者全員の持ちまわりである。
 応答については他の教会でも行っていると思うが、その場合であっても礼拝の中に取り入れるかどうかは教会によって違うと思う。百人町教会の場合は話の時間が長く、応答も礼拝の中に入れたいという思いから、食事までもが礼拝の中に入った形を取っている。皆が話し合い決めた形である。この点がもう一つの変わったところではないかと思う。
 例として、先週(2007年7月22日) の主日礼拝の様子を簡単に紹介したい。この日、証詞をしてくれた人は教会員のベルトラン(Vida.T.M.Beltran) さんだ。彼女はフィリピン人である。彼女の夫も百人町教会員で、彼の国籍はトルコであるがトルコ国内で迫害を受けているクルドの人で、現在日本政府に政治的亡命を申請しているタスクン・サルマン(Taskin Salman)さんである。二人の間には小学校一年生の娘、ジラン(Beltran Zilan) ちゃんがいる。彼女は日本で生まれ、両親の国には行ったこともなく、言葉も分からない。今年三月の東京地裁での裁判で特別永住が不許可になったため、現在は東京高裁に控訴中である。(2008年3月25日、東京入国管理局は、クルド人・タスクンさん一家三人に対し、小学1年の長女の就学の人道上の理由などから定住者として1年間の在留特別許可を出した。ジランちゃんは今、日本の小学校で4年生。)もし日本政府の許可をもらえない場合には、家族三人がばらばらになってしまう可能性が高い。二人は1990年代半ばから来日しており、二人とも日本語がとても上手である。この日の礼拝で彼女の話の題は「私の日本での生活体験」で、聖書はマタイによる福音書11章28節とガラテヤ書6章9節を読み、日本語で約50分間、涙ながらに語った。そして共に食事をし、応答の時は、二人がどの様に出会ったのかを始め、裁判の現状などを聞き、最後は教会員が祈り、神様への願いと励ましあいの時を持つことができた。
 それではこのような形で礼拝を始めたのは何時頃からであろうか。百人町教会の記録を見ると1973年4月15日の礼拝からである。その時は礼拝を一旦終わらせて、食事をした後に話し合いをしていた。そして、同年8月26日の礼拝から食事や応答が礼拝の中に入れられ現在のように変わった。当時は未だ百人町教会ではなく、大久保集会といって教団にも未加入の無牧の時期であって、教会の始まりが1970年11月だったところから判断すると、かなり早い時期から今のような形で礼拝を始めていたことになる。
 食事の時には、まず各自の活動報告や案内などが行われる。はじめて百人町教会に出席した人の紹介と自分たちの紹介もする。決して敬虔な雰囲気での食事ではなく、挨拶や安否も尋ねて動きまわり、話し声や笑う声も絶え間ない。礼拝での食事は各自が弁当を持参する。初めての人や弁当を持って来なかった人があっても、少しずつ分けあって食べると足りないことはない。
 家庭集会や聖書研究会などでは食事を作るが、この食事を大いに助けるのは前任者である阿蘇敏文牧師の田畑である。阿蘇牧師は主任牧師を百姓になりたいという理由もあって辞任した。有機栽培で作った美味しい米や野菜など多くの食材を供給、後任の私も米を買わないでいつも美味しいご飯を食べている。
 このような食事について聖書的な根拠を探してみることも楽しみの一つであるだろう。人類が始まって以来、食事は命と関連する最も大切な営みの一つである。その分、宗教という面からも大切に扱われてきたと思う。一つの共同体が生きるために食物をどう分かち合うべきかについては、出エジプトのイスラエルの民への教えからもよく分かる。旧約聖書では荒れ野でのマナのことで( 出エジプト記一六章)、新約聖書では少ないものを分かち合い4千人、5千人が共に食べた事件などである(マタイ15:32-39、14:13-21他)。
 そして、出エジプトを記念する過越祭(出エジプト記12:11以下) やヤハウェ共同体の契約の時にも食事がその中心を示している(出エジプト24:9-11)。イエスの最後の晩餐もこの過越しの食事の一環である事を忘れてはならない(マタイ26:17-25)。このような宗教的な食事では永い伝統の中で儀礼的な部分が多く含まれるようになるが決して形だけではない。
 イエスの公的活動時期においても食事の時を楽しんでおられたと思う。生きるためにも重要であるが、交わりや教えの場としても重要な時である。レビの家での食事の時には(マルコ2:13-17) 多くの徴税人や罪人も同席している(マルコ2:15)。重い皮膚病の人シモンの家でも食事のときを持ち(マルコ14:3)、マルタとマリアの家での食事の時は交わりを楽しんでいる(ルカ10:38-42)。復活後に湖畔での弟子たちとの食事のときは(ヨハネ21:15以下) 弟子たちとの絆を確認する。徴税人ザアカイの家では生き方を変えるという約束が行われる(ルカ19:1-10)。聖書には書かれていないが、イエスと周辺の人との食事の時は毎日のようにあったと思う。
 このように食事の時に、飢えている人々と分かち合い、病気を癒し、教えを行い、和解や赦しが行なわれた。食事を共にする事を通して人々は連帯感を深め、イエスの道を歩もうとする決断を新にしたと思われる。百人町教会の礼拝における食事に意味を付けるとすれば、このようなことを思いながら、イエスの十字架の道を共に歩もうとするもの同士の新たな決断と連帯の時であると考えられる。(2007年7月25日・賈晶淳)

 
 新しく変わった場所についての風景
 礼拝場所を矯風会館から高田馬場に移してから2回目のクリスマスを送った。憂慮したのとは異なって50人が入って狭くも広くもない丁度良い空間のように思えた。古い専門学校の教室を借りている為、3人掛けの机も大変重いものでもあり、誰もいない時には少々殺風景に見える空間ではあるが、円形に机を並べ替え、そこに人が座ると色とりどりで温かく和やかな空間に変わる。学期初め頃の女子学生が多い教室のようにきつい香水の香りではなく、目立たないほどの白色が心を通わせ、和ませる人々の温かい香りである。礼拝する者が飾りであり、中身でもある。時には懐かしい顔、時には綺麗なオルガンの音と讃美の声、時には話を静かに傾聴する人々の姿、時には食べ物の匂い、時には涙と笑いがある情熱溢れる素敵な空間と変わる。きっと初期キリスト教の家々での礼拝はこのようであったのだろう。この世のどんな礼拝堂より美しいと思う。10月の最後の礼拝で前面の黒板を布で飾ろうと提案した時に教会堂建築に多く携わっている会員が「飾らないでそのままで良い」とおっしゃった言葉は、改めて百人町教会のあり様と教会形成の意味を教えてくださったものと思う。
 2009年も大切な方々と一緒に過ごすことができ喜びで胸がいっぱい。世界がどのように変わろうとしても、信じあい、励ましあえる人らと共に過ごせるのはどれほど贅沢な話であろう。この一年を共に過ごした百人町教会の皆様、そして関係者の方々に心より感謝を申し上げたい。
(2009年12月27日週報・牧師日誌)
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