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1990年以前の参加者の座談会
 
40周年を迎えるに当たり、比較的新しく百人町に加わった方たちが座談会を開いたところ、前からいた人達も話し合った方がよいのでは?ということになりました。そこでメンバーが少し入れ替わりながら、40年間近く百人町に属して印象に残っていることや今後のことなどを話し合いました。

初期の頃

司会
 私は初めから大久保集会に属していましたが家庭と仕事の両立で、結婚して数年間は礼拝にほとんど来られませんでした。でも、百人町の人達が大好きで尊敬もしています。例えば若い頃職場で「君が代・日の丸」の問題にはっきり反対と言えたのはここに連なっていたからだと思っています。では、40年間の中で印象に残っていることやよかったことを率直に話してください。
 美竹を出る時は「出エジプト」の荒れ野に行くという気持ちが強かったです。百人町は垣根や壁や制約のない教会だったと思います。
 子ども連れで大久保集会に来るようになりました。その頃人の出入りが多くとても落ち着かず、子どもも前の教会に行きたがったのです。でも、家庭集会が始まり人の話を聞く中で自分の考えも整理できるようになり、子ども礼拝も出来て子どももやっと落ち着いて来られるようになりました。
 それは、阿蘇牧師が来られてからですね。家庭集会も子ども礼拝も阿蘇牧師から始まったのです。
 神学生として池田春善さん、そして何人かの方々が子ども礼拝に関わりました。「ろば」99号にAさんが書いています(本文 雑景に収録)。たくさんいた子ども達も中学生になると来なくなりました。神学生だった田中和三郎さんが中学生の礼拝を担当され、唯一うちの長男だけが毎週来ていて、一対一で付き合ってくれました。でも、卒業と同時にパタッと来なくなりました。今は、教会には行っていません。
 71年津地鎮祭名古屋高裁違憲判決、77年最高裁逆転敗訴、その間に声明文や要請書を書いたり、皆で全国自治体に発送したり、考えてみると本当に忙しかった。みんな若かったからエネルギーがありましたね。教会が正に直接問題に関わっていたという初期の思い出ですね。
 子どもの頃親と共に通っていた教会と百人町は全然違っていた。応答の議論を聞くと「大人がこんなにも真剣になれるのか」と驚きでした。百人町は自由に言いたいことを言うのが新鮮で感動的でした。亡くなられたOさんとも刺激的な出会いでした。よく酒も一緒に飲んだ。
 受洗の同期だね。
司会
 クリスチャンホームに育ちながら受洗が遅かったのですね。
 ずっと反発してましたから。神様は自由と言いながら形式的な受洗をして人間何が変わるのかと。
 親御さんの教会には行かなかったということですね。
司会 すばらしいのは息子さん達が二人とも受洗して教会に行っているのですよね。百人町の中では珍しいです。(一同笑)

 仕事と信仰のギャップも教会で真剣に議論している人達を見ると力をもらって耐えられるというか、周りの人達はもっと真剣に生きている感じがしました。
 大久保集会として礼拝場所を与えられたのがすごく安心してうれしかったです。初めの2、3年は自分が一回教会を休んだら教会が消えるという危機感があり、台風や大雪でも休まなかったし、風邪気味で行ってもそこで直るという気持ちがありました。
 すごい信仰ですね。(一同笑)
 阿蘇先生がいらしたら安心して休めるようになりました。(一同爆笑)この40年間で母の死や定年退職、いろいろあったけど何が起きてもすっと受け入れられたのは百人町に属していたからだと思います。
 ここで、美竹教会から分かれた原因を検証する必要があると思います。一つは浅野先生の後任になられた先生の説教への批判、二つ目は東神大への機動隊導入への批判、この二つの要素は社会と時代に責任をもつということでつながりがあるということです。こうやって出発したが、今はどうかという話が一番大事ですよね。
 大久保の立ち上げの大変な5年間は子育てで全然行ってないのです。阿蘇先生がいらして軽井沢の修養会に3人の子どもを連れて参加したのが楽しく印象に残っています。
 途中百人町から出て行った人もたくさんいますね。
 百人町は個人個人がしてきたことをきちんと継続してきた、だから私は40年間やってこられたと思っています。
 阿蘇先生は女子学院のお仕事と両立されて忙しかった時期、毎年臨時総会で牧師を辞めさせてもらうと話されていたのです。それが朴聖慈先生がいらして姉妹関係が始まってからおっしゃらなくなったと思いませんか?
 それもあるけれど女子学院を辞めて余裕が出来たからでしょう。
 教団加入もそんなにすっきり決まったわけではありませんよね。
 教団に加入しようとした際、近くに教団O教会があったということと全員が賛成したわけではなかったので決まるのに長引いたのですよね。
 蚕室教会との交流を通して私自身が作り変えられたと理解しています。日韓合同修養会の時、
 さんから過去の侵略のような歴史を繰り返さないようにぜひ憲法を守り、運動の輪を広げて欲しいと話され、退職後意識的に平和のための学習や活動をしています。
 みんなである時間を共有することが教会として大事だと思います。皆さんがやっていることを気持ちの上で共有するとか。阿蘇先生が抵抗にあいながらもずっと初志貫徹してこられた行動力が大きかったと思います。
 きょうも靖国神社国営化反対月例デモがあるのですが、社会問題をずっと続けてこられたことや、フィリピンや韓国、アジアの中の日本を考えてこられたのは、ここでの刺激が原動力になったと思っています。
 10代後半にキリスト教に出会い、この40年間百人町が自分にとってどんな存在なのか常に頭のどこかにあり続けているんですね。組織は常に変わってきているなと思います。仕事を教会の関わりと教会のもつ価値観でただしながら生き方と照らし合わせてきたと思っています。40年間教会形成に連なってこられたのは、健康や友人の面でも恵まれていたと思います。自分の中に重いものもあるのですが、その辺のところはまだ。
 蚕室教会との姉妹関係を通してアジアとの問題を考えてこられたと思っています。

これからのこと

 これからのことをどう考えるかが座談会で話し合えるとよいと思うんですね。今の百人町を考える時、一番最初の創成期の頃、阿蘇先生の時代そして今賈先生の時代となっていますね。賈先生の時代のことをもっと考えたいと思うんです。蚕室教会とのつながりで韓国の人達との親近感が高まってきましたが、新たに賈先生との関係でいろいろなタイプの韓国の方々が来られるようになり、韓国との違うルートが開かれるようになったことが大きいと思います。もう一つは、きょうのお話にあったように賈先生が大学で授業されるようになり、百人町での証詞が学生に受け入れられ、学生の反応を先生がこちらに返してくださる。百人町での信仰の継承はなされなくても、違う場所での新しい世代の信仰の継承がなされると先生が話されたことは大切だと思います。将来への足がかりができつつあるような印象を受けています。
 なぜ大久保集会が矯風会館を借りられたかと言うと、当時僕が会館の改修工事に関わっていたからです。僕は四代目のクリスチャンで父は牧師だったが、若い頃キリスト教が嫌でしようがなかった。40年前はやっと建築家の仕事が出来るようになり、また次々と親の介護が始まり教会は欠席し勝ちでした。でも救われたのは、逗子教会やS先生の桜本伝道所の設計の仕事が来るようになり、キリスト教嫌いなのに飯の種になるからと教会建築に携わってきました。以前、キリスト教新聞の取材で「Iは何十という教会を建てながら自分の教会はいつ建てるのか?」と聞かれ、「そういうことは全然ないだろう。」と答えたら「呆れた建築家だ。」と書かれてしまった。(一同笑)
 教会建築をやりながらずっと思ってたのは、教会は礼拝が中心だということです。礼拝は一種の儀式ですよ。百人町もただ集まって応答があるだけなら運動体に過ぎない。その時間と空間は神によって清められる、そういう場所だと思いますね。だから百人町に来ているのは、非常に幸せだと思っています。これくらいの規模だと先生が自分一人に話かけてくれるようにすっと話に取り込まれるんですね。そこが百人町のすばらしい所なんじゃないか、だからこういう方法をもっと増やしていくのが伝道の方策なのかなと。キリスト教の伝道は、日曜学校や幼稚園が盛んだった時期はまだ地域の人と接触があったが、それが薄れた今こっちから世間に出て行くのもいいかもしれない。何もない方が逆にたくさんいただいているという感じがしています。

 教会に来たきっかけは社会とつながるという発想からです。教会でKさんIさんMさんと出会い津地鎮祭の問題に関わるようになった。俵さんとの出会いや聖研ではSさんに出会い月例デモに参加するようになった。教会から全部発したということです。私の中には教会と仕事の二つの重心があり、教会は仕事の支えとなっていました。教会は建物ではなく人だと思います。
 振り返ってみて阿蘇先生や賈先生の牧師の水先案内人としての魅力で付いて来たかなと。自分は活動していなくてもアジアで働いている久保さん穂積さんや韓国の方々など身近にいて、いろいろと視野を広げてもらえるので得をしている。最近は人の交わりが大切なんだなと思います。Eさんが言ったように振り返るだけでなく40周年も視野に入れながらこれからのことを考えた方がよいと思います。
 一つは組織は変わるという話がありましたが、百人町も出入りが多い有機体的な感じがします。それからいろいろな社会的な活動がありましたが、阿蘇先生の農場での若い人への教育やフィリピンへの支援もよかったということです。政教分離の会にGさんが事務局として30年以上地道に関わってこられたのも百人町の体質だと思います。もう一つは若い人が来ないということを考える必要がある。それは日本全体の問題か、キリスト教会の問題か、百人町教会の問題か個々人の問題かよく考えてこれからどう進めていったらよいか検証していくのがよいと思います。40年間これだけのことをやってきたがこれからのことを考えるのが大事だと思います。
 35年程前青山の短大にいる時、掛井先生と阿蘇先生の聖研に週1回出ていたのです。その頃韓国は朴正煕政権の末期で韓国神学大学に行った先輩が政治犯として捕まったりしてとても怖かったのです。で、そういう恐れを誰にも話せないでいたのですが、掛井先生の聖研では安心して何でも話せたのです。その十数年後に百人町に来たのですが、百人町はだれかが提起した問題をみんなが自分の問題として聞き、しかも真剣に考えてくれる貴重な場だと思います。そしてその根底には揺るぎのない信仰があり、この人達には何でも安心して話せるという信頼感があるのです。
 大阪から上京して変わりたいという気持ちで、オルガンを借りていた聖公会で受洗しました。M先生とのつながりで百人町に来ましたが、阿蘇先生初めみんな個性豊かでとても魅力的で、私の人生の中では一番大切な場所であり、これからもずっとそうだろうと思います。木田先生からずっと「主体性の喚起」と言われ、自分も主体的に生きなければと思いました。また、いろいろと社会の中で目立たない所で真剣に関わっている方たちを見て、これが信仰なのだと学ばせていただきました。この財産をいかに若い人達に伝えていけるかということが課題かなと思います。ぜひ来たいという賈先生の学生にも百人町を見てほしいです。
 クリスチャンホームとして家族で通っていた教会を出て一人で百人町に来るようになったのは大きな決断でした。いろいろ活躍されている方々がいる中でフィリピンの問題に真剣に取り組んでいた小坂さんのことが印象に残っています。教会として右向け右ではなく、出来る立場の中でできる人がやるのが百人町のよさだと思います。その中で大きいのは先生の政権交代というか牧師交代劇が重要なポイントを占めていると思います。賈先生の時代になっても阿蘇先生がいい意味で支えているという理想的な交代だと思います。世話人会というのも権威的でなくすばらしい言葉だと思います。ここの所、新しい仕事を仲間と始め礼拝に出席できなくなり、教会に属するって何だろうとずっと考えています。体を壊して来られなくなった時の教会との関係をどうしたらいいかって。提案ですが、インターネットで礼拝を自宅で聞けるというような工夫があったらいいかしらと思います。
 この教会の魅力は来ている人が自分の意見を言える所だと思います。聞いていて共感をもつし、そういうことを言ってもいいのだなという気持ちになれるのです。私は5年前に仕事を辞めて月に一回家庭集会で、聖書を学んだり本を読んだりすることがとても励みになっています。今年教会の会計をやらせてもらっていますが、こうやってみんなに支えてもらっているんだと感じると共に、実際にみんながお金を出しづらくなっているとも感じます。賈先生は「僕はだれがいくら献金しているかというのは絶対見ない。」と言うんです。もし、じり貧でだめになったらそれでもいいんじゃないかと思うんです。私は、この教会を大きくしようとか若い人を連れてこようとか思わず、勿論来てくれればよいですが、今が豊かな時であればいいと思っています。
 阿蘇先生の行動力がとても大きかったと思います。SさんやGさんが今も靖国デモを、大きな事件や裁判がある時でなく何もない今も地道に続けていらっしゃるということが、私も続けていかなければと思わされる力になっています。阿蘇先生が主任牧師を辞めてコスモ農園を始められる時批判的でしたが、コスモとの関わりの中で阿蘇先生がやっていらしたことが、私たちに返されそこから得たものは大きいと思うのです。賈先生に替わられてから私達は教育され、証詞の順番が回ってきたり、家庭集会でも聖書は牧師さんの担当だったのに私達がやらざるを得なくなったというか、勉強させられるようになりました。(一同笑) それで聖書を読む楽しさを感じるようになりました。
 私は前は百人町教会と蚕室教会との姉妹関係に否定的でした。それは聞いた話ですが、結ばれた理由がどうなのかなと思っていたからです。合同修養会に参加しても刺激よりは何か物足りなさというか、違和感を感じていました。姉妹関係だったら物事を起こすとき、呼吸や足踏みが気持ちよくピタッと合うんじゃないかなと思っていました。でも、蚕室教会から連絡がなく活動が中止になったら、百人町が一人になってしまってすごくさびしいと感じています。やはり姉妹関係は大事だったなと思います。これからも積極的に姉妹関係はあったらいいなと反省をこめて思います。
 私達が里親としてこれまでやってこられたのは、皆さんの支えとお祈りがあったからだと考えています。東村山の都営団地で三人の子ども達を迎えファミリーホームをやりたいと思った時、ある程度の居住面積が必要で聖書研究会を中心にいろんな方が真剣に考えてくださり、物件を今の八王子の場所に探してくださったんです。皆さんが経済的に支援してくださり、ファミリーホームを開所することができたんですよ。百人町は一人が行動するとみんなが支援してくれるというのがあります。その時々で大変な時期もあったけど、それを乗り切らなくちゃならないと。賈先生が「ろば」で書いていますが、現代をどう捉えるのかという言葉で乗り越えられるのかとありがたく思っています。
 百人町で最初に学んだのは、いくら牧師であっても信徒の一人であるというのが第一。その上で牧師ということです。だからみなさんと全く同じ立場の信徒として教会を支えていく、今後もそういう生き方をしたいと、その中でプロとして任された牧師の仕事をしていくと、その二本立てなのです。
 百人町教会で一番学んだのは教会形成ということ、それは信仰の在り様から礼拝の全ての中身まで含めて、それを牧師一人でやるものじゃなくてみんなで創りあげるものだということ、聖書だって牧師一人で読み済ませるものではなく、みんなの話を聞く、そこで応答があるので牧師として専門的なことを考えることもあるし、皆さんから学ぶということ、これが一番大切と思います。世の中の牧師は人の話を聞けない、これが一番不幸せな問題ですよね。
 自分自身のことでは、さっき泣いてしまいましたが、阿蘇先生や道子さんが(道子さんはすごいんですよ。) ずっと支えてくださいました。勿論皆さんも陰で支えてくださいました。だから支区内の教会では私が幸せだと嫉妬されているんです。私は非常に批判的な部分も多いのですが、批判は反省をこめての批判でもう一歩進めるためにも必要だと思っています。百人町は他と比べても割合若い人が多いのはこの教会に魅力を感じているからだと思うのです。だから希望はあると思っています。

ちょっとは批判も言わせて

 時々思うのは、過去を懐かしがってそればかりだとこれから先が見えないという危惧がありますね。
 それに関連して思うのは、百人町は美竹から出てきた教会だから常に皆さんの思考がそこに戻る。バックボーンがあるのは貴重ですが、そこに属していなかった者や若い人達が思い出話として繰り返し聞かされるのはどうなのかなと思います。
 歴史を知るのは勉強にもなるのですが、私は疎外感を感じるときがあります。
司会
 そういう意見は他にも聞いたことがあります。
 Wさんも視覚障害者のことを百人町でやりたくて話も何回も聞かされたけど、反応がなかったので足が遠のいていっちゃった。
 人間は一番視覚で認識するんですよ。だから建物があって牧師さんが偉そうに話すと心に残る。でも、ここに来ると単なる集会と思うわけですよ。
 建物がある教会が良いとか無くてもいいというのは、その人によるのであって、今百人町は建物がないのだからこういうスタイルで来る者は拒まず、私が思うのは去る者を追わなすぎる部分があったというか、例えば考え方の違う人や支えが必要な人もいらっしゃるでしょう。個人的にフォローはしていると思うけれど、教会として目を向けるとかそういう姿勢はあまりなかったですよね。以前は教会員の方にあまり目が向いていない教会だと思っていました。
 でも私は長い間来られない時期がありましたけど、阿蘇先生は必ず「ろば」や週報に一言コメントを書いて下さったり、ケアーがありましたよ。
 若い人が来るとしたら動機はどういうことなんでしょうね。僕自身は病気で救いを求めてきたわけですよ。教会に来てみるといろんなタイプがあり、ミッションスクールでずっと教育を受けた人、社会の問題で来る人もいるし、その頃キリスト教に勢いがあったから来た人もいるしね。今の時代はどういう思いで若い人が来るのか来ないのかね。
 さっきの賈先生のお話でR大の学生で教会に興味のある人いっぱい出てきたじゃない?そういう人達はどういう教会に行くのかな?
司会
 キリスト教を学びたいと書いていた人もたくさんいたし。
 ここが狭すぎて入れなくなったらどうしましょう。
 阿蘇先生の教え子さん達も来ていますよね。
司会
 Hさんが言われたインターネットの礼拝はどうなのでしょうね。
 やろうと思えばすぐできますよ。ただパスワードを知っている人だけに限定するか、全ての人にオープンにするか、決めなくてはいけないですね。
 映像も入れるのなら誰かがカメラを回さなくちゃならないでしょう?
 映像を入れなくても声だけでもできるかな?
 それならCDとどう違うの?
 ただ同時刻に参加できるのですよ。
 その問題は正に目前というか現実にあるね。
司会
 これからだんだんみんなが通えなくなるかもしれない。
 こっちが空っぽでみんな家で見てるかも。(一同笑)
 そうなったら困るね。
座談会 日時 2010年6月20日、7月18日
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