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    彼らは群衆を恐れた(マルコ9:33-37)
 先週のお話の中で旧約聖書における第三の権威機構というのは「預言者」ではないかと、そしてそれは近現代における「マスコミ」や「市民」ではないかとお話しましたが、その他そのような機関が今の日本では御用になっているのではないかという疑問も残しました。

 実際、マスコミの報道の姿勢は、公正性を失われ、その最も大切な批判力をも失われつつあると考えられるのではないでしょうか。資本や国家権力にその責任を覆わせてもいいのですが、そのマスコミや市民的な機関が自ら堕落の道を歩むこともありますし、それはいつの時代でもありえる話ですが、やはりそれらの御用化なり、奴隷化というのはその時代を一番危うくすることであると思います。勿論全てが駄目だとはいえませんが、今年に行われた右傾化する政治的動きに対しての何の歯止め役も出来ない無能な、それより協力する最悪な機関になっているのではないかと思うのです。

 このようなことがおきうるのは自ら国民の代弁者であると自称するものらが勝手に大衆論理をつくり、それに伴う法的装置を多数決で決めるわけですが、そのように成った原因の一つ、確かなことは以前より権力側が余りにもマスコミや市民の力を怖がらないことです。自民党の議員は当たり前なことですが、この前、8月15日の証詞の中で、あの鳩山氏の日の丸・君が代に対する発言に歴史性の欠如についてお話しましたが、最近自分は正統保守派であるといい出し、自衛隊の国軍化を主張するところまで来ています。誰が見ても可笑しいことですが、その背後にはいわゆる大衆論理に従おうとする姿勢があるのです。即ち、時代が変わったと、戦前と戦後は違うと、日本は民主主義国家であると、国民は成熟していると、その多数の意見に自分は従うと、益々そのような姿勢が与野党関係なく強くなっていくと思います。彼らは今の時代がそのように変わったと思っているのでしょう。それを時代錯誤といえますが、ある意味で怖い時代になりました。このような雰囲気は今出来たものではなく既にこの国の権力者らの人々に対する政策であり、今後も日の丸・君が代の強制化をはじめ益々強化されていくのでしょう。
 故安炳茂氏の民衆神学では新約聖書にはギリシャ語で「ラオス」という言葉と、「オクロス」という言葉を分けていますが、そのラオスというのは所謂大衆的なものであり、オクロスは民衆的なものであるとおっしゃっています。しかし、言葉の扱いでそのように一括的に規定するべきではないと思います。確かにその性格の違いを認めたとしても、常に大衆の中に民衆が、民衆の中に大衆が含まれているのは当たり前なことです。そして、民衆は大衆と区別できる性格があるかもしれませんが、例えば、「オクロス」についてのことですが「新約聖書に表れるオクロスの概念は民衆と非常に類似していると。イエスとこのオクロスとの関係から見ると、オクロスはイエスといつも共にいた。しかし、ここでイエスが民衆の為にいるという思考は排除するべきである。民衆とイエスを決して主客図式の視座から見てはならない。つまり、イエスは主体、民衆は客体ではない。イエスと共にいた大勢の民衆は単純に救済を期待する弱者ではなく、ローマ帝国の搾取と抑圧からの期待でイエスを自ら求めた。」と述べられています。最後のこの部分については同意しますが、当時のイエスを含む民衆の姿勢はどういうことであったかについては少し考えさせるところがあります。
 まず、今日の聖書の本文を見ますと、これはイエスの例え話でありますが、何を話そうとしているのか少なくともその場にいた人たちは分かっているような気がします。これを比喩的解釈にしますと、一節に登場するぶどう園を作ったある人というのはこの世を作った神様、農夫というのは世の管理者、つまり指導者です。ですからこの例え話は、簡単に申しますと権力批判になります。任された仕事を正しく行われていない管理者の様子が書かれております。
 ここで、もう一つお分かりになるのは、所謂指導者たちの態度、そのような自分たちに対するイエスの批判に不満を持ちながらも自己弁明なり、イエスの口封じすら出来なかったことです。ここで彼らがそのようなことが出来たかった理由として最も重要に考えられるのが一つあります。確かに彼らに対するイエスの批判の正しさにもあったと思いますが、その他にもう一つの力が存在していました。それは「群衆の力です」。その群衆は「民衆」か「大衆」であるかを分ける必要はないと思います。12節の彼らは力でイエスを抑えようとしましたが出来ませんでした。その理由として聖書には彼らが「民衆を恐れた」(12節)為であったと書いてあります。彼らのこのような心理状態はその前の11章の32節にも書かれております。他のところでもこのような様子は何度も出ています。マタイによる福音書から読まれる幾つかの個所の例をあげますと、マタイ14の1からのところ五節に「民衆を恐れた」。21の23からのところ26節に「群衆が怖い」。26の1からのところ五節に「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間は止めておこう」。などがあります。即ち、「群衆の力」です。それは今の用語で言えば「市民的力」と思います。感心するのは、今から2千年前の時の権力者や指導者たちがその「群衆の力」に恐れていたと言うことです。今の為政者には余り期待できない部分です。多分、旧約聖書の王権や祭司権に対する預言者の批判活動の背後にもこのような群衆の力が働いていたと思います。
 それでは、彼らはどのようにして力を発揮したのでしょうか。多分、群衆はまとまった知性なり判断力はなかったと思います。しかし、群衆が持っていた何かのことが彼らを怖がらせたというのは間違いありません。まず、彼らは当時の世の中の動きについての関心が強かったと思います。常にそれらについて聞こうと、見ようとしていたと思います。当時は今のように情報メディアが発達している時ではありませんでした。全てのことは人の口込みを通して伝えられました。ですから、もっと情報に渇いていたと思います。ですから、いつ、どこでも出かけ、耳を傾け、人の話を聞こうとしました。例えば、ルカによる福音書21の38、「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」、19の48、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」等です。そして彼らはイエスの教えが行なわれる場所をはじめ、あらゆる奇跡や議論の場、裁判や処刑の場まで見に出かけていました。そしてもう一つ、彼らは黙っていられませんでした。彼らは自分の声を出していました。
 イスラエルの人々はこの世の歴史に干渉する雄一なる神を信じ、常に彼らが生きていた時代の動き、詰まり神の働きを聖書の記録を通して残す作業をして来ました。そして、その伝統をもっている当時の人々の心には、常に預言者、或いはメシアを待ちつづけていたと思います。民衆はメシアを待ち望んでいて(ルカ3の15)、ヨハネに対しても、またイエスに対してもイスラエルの預言者、或いはメシアであるという考えを持っていたのです。ですから当時の人々の心組みには、前で申し上げました姿勢を通して常に世の動きを聴き見をし、自分たちの声を出していた為、権力者は彼らを恐れていたと思われます。

 イエスは死んでからではなく、生きている間、既に民衆によって、民衆と共にいるメシアでありました。それは当時の一人一人の民衆が見て、聞いて、それぞれの意志で選択したメシアです。その選びには時と場所によって間違いが発生します。例えば群衆はイエスではなくバラバを選びます。しかし、その場合でも彼らはバラバが預言者なりメシアであると思っていたと考えられます。そして、その場で自分の声を出して要求します。「バラバを」と。残念ながら、今の時代は自分の声を出すことまでしなくても、見ようと、聞こうともしないのではないか、或いはその作業を他人に任せているのではないかという疑問が生じます。

 最後にイエスの教えから二つの重要な言葉を想起します。一つは、ルカによる福音書12の54、「どうして今の時を見分けることを知らないのか。」そしてその直ぐ後ろの57節、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」。また、イザヤ書6章の召命記事には次のような言葉があります。「行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな、よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。めで見ることなく、耳を聞くことなくその心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」。このようなことは滅亡の前提になります。どの時代でも権力者はこのようなことをしています。しかし、彼らが「群衆」「市民」を恐れるようにするのはどうするべきであるかについても逆の面から教えられるのです。(1999年9月19日証詞より/ろば143号)
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