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    聖書を書き続ける人々(エレミヤ書36:1-8)
 この数日間、沖縄の数箇所を訪ねまして、過去・現在の歴史に関していろいろと学ぶことができました。皆様や皆様のご先祖様が大変ご苦労をなさったことをしみじみと感じることが出来ました。しかし、その痛みを自分が少しでも理解出来るとは思いません。願わくは、今までのそのご苦労がこれからの平安と平和に変わって行かれることと、人類の新しい歴史を創って行かれる礎になることを切実に祈りたいと思います。
 今日、皆様とご一緒に学びたい御言葉はエレミヤ書36章のところでございます。エレミヤ書は皆様が良くご存知でいらっしゃると思いますが、イスラエルの預言者エレミヤの生涯と言葉が記録されているものです。今日のところはそのエレミヤが数多く語った言葉のごく一部で御座いますが、今日の沖縄の歴史を思う時、何か大切なことを私たちに教えてくれる部分ではないかと思いまして選びました。

 まず、今日の聖書の1節と2節を見ますと次のような言葉から始まっております。「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。『巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。』」

 エレミヤは神様からあるものを記録して残すように頼まれました。
 それは、ヨシヤの時代からこの言葉を聞いているその時までのイスラエルやユダ、および周辺諸国についてのことを残らず書き記しなさいという事でした。
 もう少し具体的に申しますと、このヨシヤの時代から本文中の今日に至るまでの期間には、一節にも書き示されていますように、ユダ王国にはヨシヤという人がいまして、彼は神の掟を正しく守った善良なる王で、有名な改革者でもありました。しかし、その後をついだヨシヤの息子であるヨヤキムはその親ヨシヤとは丸きり違ったタイプの権力者であり、政治的にはエジプトに依存し続けた者でした。そして、2節の「今日」という時とは、1節のところに記されているように、ヨヤキムの即位4年(前605年、ネブカドレツァルの新バビロニア帝国の王位継承の年)の時を指し示していることで、この時というのは、短い期間であったかも知れませんが、北王国のイスラエルは既にアッシリアの支配下に置かれていた状況でした。
 そのように不安定な時期にユダの王ヨヤキムがエジプトと手を組んでしまったことは、当時東から勃興していた新バビロニアに、侵略の良い口実を与えてしまう結果になり、やがてユダ王国もバビロニアに占領されてしまうのです。そういった極めて厳しい時の事を神様はエレミヤに記録して残すように頼んでおられるのです。それも、残さず記録して欲しいということでした。
 まず、この時期のイスラエルの情勢というのは、敗戦を前後とする数十年間の沖縄や周辺諸国による情勢と類似していたと考えております。その場合、今日の個所の意味は、神様が沖縄の皆様にも同じように沖縄で行われた全ての事を残さずに書き記しなさいと頼んでおられることだと受け止めたいと思います。
 それでは何故、神様はそのような指示を下さったのでしょうか。3節を見ますと、「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」
 未来へ向うイスラエル民族が正しい道を歩くようにさせるためであります。又、神様のみ旨に従うことによって以前の過ちも許されるためであります。
 当時の民衆から見ますとイスラエルは神様のみ旨に従わない愚かな支配者によって苦の歴史を負われた時代でした。そういった時期、全てのことを書き記して残すことはその未来のためにとても大切な行為になります。そういった意味で、聖書は常に大勢の人々によって書き記されて来たと思われます。
 そして、もう一つの書き記されるべき理由とは5節以下を見ますと、「エレミヤはバルクに命じた。『わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。』」と書かれています。
 その残さずに書き記されたものは神殿で読ませるためでした。断食の日、大勢の人が集まって来た神殿でその書物は読まれることになります。エレミヤのその記録は、こうやって時代も場所も遠くはなれている今日の沖縄の石川教会で読まれているのです。そして、それを読んだ人々は神様が示される正しい道を歩むことが出来るのです。
 7節にもそのようなことが書かれております。神様の怒りや憤りを知り、悪の道から立ち帰る事を神様は望んでおられるのです。
 しかし、その記録が神殿で読まれることや書き記されるのは簡単ではありませんでした。今日は読みませんでしたが、続きの26節以下を見ますと、それらの行為について支配者が激しい敵意と妨害を行っているのです。「かえって、王は、王子エラフメエル、アズリエルの子セラヤ、アブデエルの子シェレムヤに命じて、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえようとした。しかし、主は二人を隠された。バルクがエレミヤの口述に従ってこれらの言葉を書き記した巻物を王が燃やした後に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。」
 神様から示された真実を読み上げた者が殺される運命に置かれます。又、その書物は支配者によって燃やされてしまうのです。このようなことは、終戦の時から今日に至るまで、沖縄の歴史においても全く同じ事が行われたのではないかと思います。平和記念館に設置されているガマの中の日本軍の蝋人形の視線の方向が歪曲されているのもその一つの小さい例えです。悲しいことは同じ兄弟姉妹といわれる日本キリスト教団の多くの者によっても同じ事が繰り返されている事実です。
 しかし、聖書はここで終らないのです。28節を見ますと、「改めて、別の巻物を取れ。ユダの王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元どおりに書き記せ。」と書いています。神様は再び元どおりに書き記すことを指示します。私たちも同じ事をしなければなりません。
 最後に、これらのことが私たちの大きな希望であることを申し上げることで今日の話を終らせたいと思います。
 まず、このような大切な事を何故神様はエレミヤに命令したのでしょうか。それは彼が神から選ばれたこともありますが、やはりエレミヤ自身が何度も死の境と苦難を多く経験したからでございます。書き手の問題は間違いなく、その被害を受けた側からこそ可能です。エジプトやアッシリア、バビロニア、ローマ等の数多くの国々によって抑圧されて来たイスラエルの民の記録が今日聖書になったのはその証です。20世紀における記録はやはり、沖縄や朝鮮半島の人々、侵略によって苦しめられたアジアの人々によって書き記されなければなりません。
 しかし、そのことはただ被害を記憶し、ただ加害者を裁くためではありません。歴史を正しくさせ、未来を正しいものとして勝ち取るためであります。そして、そのことは、今回、平和の礎を見ながら(その記録の仕方には少し問題もあるかも知れませんが)、沖縄の人々の懐と、その未来の念願を見ることが出来ました。あらゆる戦争の被害や犠牲を受け、それを乗り越えて来た沖縄。戦闘員、非戦闘員、(加害者、被害者)、日本人、韓国人、朝鮮人、アメリカ人、台湾人の区別をしないで、全てが戦争の犠牲者であり、その記録には戦争を乗り越え、平和へ導く希望が含まれていました。
 自分に害を与えた者に対して憎しみをなくすことや許すことは、そう簡単なことではありません。にもかかわらず、今日の私たちが人類平和への新しい歴史を創っていくためには、その赦しとともに、私たちが見たこと、聞いたこと、経験したことを書き残し、人々の前で読み上げて行くことによってその具体的な働きが始まるのだと思います。

 それ故、聖書は今日でも書き続けなければなりません。教会での証言も続けなければなりません。
(2001年11月25日沖縄・石川教会)
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