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    個への呼びかけ(マルコによる福音書3:31-35)
 宗教改革におけるプロテスタンティズムは、カトリシズム的集団主義とは違って、個人主義、或いは個人的良心を主な内容として始まったと思われます。つまり、プロテスタント教会では一人ひとりが聖書を自由に持ち、聖書に接近することができ、そして、その個人や教派的違いがあっても最終的には教会的一致が可能であるという考えが強く改革者の間にはあったと思います。このことは非常に重要な考えであります。それは個の大切さが尊重される信仰の性格です。これらの内容はある意味でペンテコステにおける言葉の事件と一致する部分だと考えられます。使っている言語がそれぞれ違った人々が、ペンテコステの日に共に集い、求めていた内容が一致した時、ペンテコステの事件が起こり、人々との間に言語が通じ合い、神との間で新しい関係が始まりました。本日の聖書においても35節に「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」とイエスは言っておられますが、家族という集団が優先されるのではなく、一人ひとりが優先する話として考えられるところです。
 しかし実際のところ、宗教改革後の多くのプロテスタント教会は権威主義的な側面を非常に強く持つようになり、個人的信仰の有様を極めて厳しく制限するところがあったと思います。それは罪の強調とともに、より完全な義の生活を強調し、それによって教会的権威に対する従順や教理信条への依存心を働かせ、体制順応的なキリスト者を造って来たのではないかと思います。従って、プロテスタント教会でも集団性を強く強調するようになり、それらは今日で言うと日本キリスト教団が教団信仰告白を作り、半強制しているところと類似しているのではないかと思います。先頃、五月に行なわれた富士見町教会での東京教区総会に出席しましたが、毎回感じるのは体制側の極めて強い防御姿勢と、それに極めて従順な多数が併存しているということです。
 昨年9月11日の同時多発テロ事件以後、アメリカのナショナリズムがとてもよく見えるようになりましたが、それらもやはりその事件より遥か前からアメリカの内側に存在してきたあるものがこの時期に強く現われたと思われます。もしかしたら宗教改革以来の改革派的権威主義が動き出したのかもしれません。例えば、全世界がアメリカ的正義に従わなければならないという国家的権威主義と極めて体制順応的なアメリカ人の習性が同時に動き出したかもしれません。これまでアメリカは個人の自由と民主主義を最も大切にする国であると考えてきましたが、事件の後の状況を見るかぎり、むしろ非常に独善的であり、集団的エゴイストとして見えたのは間違いではないようです。
 アメリカ民主主義というのも第二次大戦後、東西冷戦時代が始まり、社会主義に対する対概念になってしまったことで、民主主義という集団主義に生まれ変わりました。例えば、戦後の間もない時期にアメリカで生まれたマッカーシズムによる赤狩りから見えてくるアメリカ民主主義とは、自らの自由を諦めるだけではなく、他人の良心や思想までも束縛してしまう集団的イデオロギーに変わってしまったように見えます。そのような環境の中では移民による少数者グループは抑圧的状況に置かれ、不安に陥り、その反動で自らが最も完璧なアメリカ人を目指さなければならない、その為には体制順応的姿勢も取らなければならないという悲しい状況が生まれてしまうのです。
 そうです、集団主義へ走らせる重要な要素の一つには不安というものがあります。個人として徹底的に生きようとする場合は大変な勇気が要ります。人々の多くは基本的に集団の方が楽であるのを経験的に知っています。宗教やイデオロギー、国家や民族、或いは人種や文化による集団、最終的には家族という集団のなかに自らを属させたいのが普通だと思います。そして、それらの集団のリーダーは常に構成員のニーズに合わせようと努めます。特に経済や戦争などによる不安的要素が多く働く場合、又は平和の時でもリーダーの思い通りにその構成員を動かしたい場合、集団的雰囲気が強くなって行きます。その一つが今の国会で自民党によって提案され、審議されている有事関連法案であり、その背後には経済的不安が働き、それによって国家権力の強化と、人々を保守化、集団化させるのが隠された意図のように見えます。
 しかし、多くの人々は一五年戦争の間に戦争集団としての厳しい経験と記憶を持ち、その多くが今でも残っています。その為か戦後の冷戦という長いトンネルの暗闇をも通り抜けて来ながらも、日本は世界の中でも最も特殊な存在としてやって来ることが出来たと思っています。それは憲法九条という戦争に対する特殊な約束を堅く守って来た為だと思います。グローバリゼーションによる一極的世界集団化が進む中で、日本のこの特殊性こそ今後も堅く守るべき価値あるものだと思います。それぞれの国家や民族が特殊性を持って存在し、それを認め合う時以外には平和は守られません。巨大な権力と軍事力によって平和が守られることはありません。
 私自身の信仰面においても、自分が教会という集団に属しているため安心している部分も持っており、逆に教会が教会員に対して集団的性格を強要及び強制しているところも多く見えます。しかし、本質的にキリスト者は徹底的に個人というものを強調しなければならないのではないかと思います。この辺が非常に難しく思われる部分ですが、先ほど申しましたように、宗教改革以来、プロテスタント教会は個人の自由を強調しながら、片方では教会的権威でそれを強く制限して来ました。これはその集団の存続や維持の為でした。教会学校の時から個より神であり、福音の為には命でも捨てなければならないように言われて来ました。救いも教会を通して行なわれているように教えられました。しかし、この場合の福音とはキリスト教の存続性を意味します。旧約聖書に登場する多くの人々はその現在と未来が極めて不安な状態に置かれているのが見えます。人々は自分たちの故郷や母国を離れ、不信や誘惑や神からの厳しい注文の前で戸惑わなければならなかったのです。そのような状況の中で彼らは徹底的に独りにならなければなりませんでした。預言者もイエスもそういった存在でした。彼らは独りとして生きるため、存在への勇気を持つようになりました。
 イエスが本文で要求しているのは何でしょうか。母、兄弟というのは家族集団のことを言います。実の母、兄弟ではなく、別の人々に向かって彼らがご自分の母であり、兄弟であると言っておられるのです。このような考えは三一節でのその母、兄弟がイエスを自分たちの家族制度に戻そうとする考えとは全く違うものでした。しかし、ここでイエスは新しい家族制度を作ろう、共同体を作ろうとしているのではないと思います。一人ひとりを家族のなかの客体ではなく、主体的な存在として見ているのです。誰でも自分と深くかかわりを持っている兄弟であり、親であるというのは、その存在が客体化されていないことを意味します。家族という側面に強いこだわりを持ちますと、自分と他人をその集団に順応させてしまうおそれがあります。
 聖書の本文は、イエスが既存の家族という集団の一部として存在して来た人々に、その集団を一度離れることによって本来の個へ戻ろうと呼びかけているように見えます。そして、イエス自身の家族に対してもそれと同じく個への呼びかけをしているように見えます。
 10年前、来日したばかりの私が百人町教会という集団へ加えて頂いたのは、初めてクニを離れ言語も全く不自由な状態で、生活に関する全ての状況がとても不安でしたので、集団に属することによって楽をしたいという気持ちが多く働いたと思います。しかし、ただそれだけであったら、集団に順応することによって自分は埋没されてしまい、個を大切にしたいと思う今の私という存在は発見し難かったと思います。百人町教会は私を仲間入りによる集団の一員へ飲み込まないで、個というものに目覚めさせて下さったのです。個が存在するからこそ健全な集団が出来る、言い換えますと、自分が特殊性を持って存在する限りにおいて、普遍への参加が出来るのだと言えるでしょう。それがペンテコステの事件であり、教会的な一致もそこから生まれると思います。世界の平和や救済もそこから生まれるものと思います。そう言った意味で、今日における世界やキリスト教は多くの問題を抱えているように見えますが、にもかかわらず新たな可能性への期待を見捨てられないと思います。こう言った意味で信仰、つまり神を受容するというのは、彼方での救済というより、今、ここでの神との交わりにわたしたち一人ひとりが呼びかけられていることの自覚と、その喜びと、応答であると思います。そして、そこから個の確立による新たな人類共同体へ生まれ変わる可能性を期待することが出来ると思います。
(2002年6月2日証詞より/ろば153号)
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