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    戦争と黙示(マルコによる福音書13:3-13)
 戦争と言うのは非日常的な出来事であります。近代における国民国家というのが未だ出来上がる前には、多くの専制主義国家があり、国というのは支配者による所有物であるため、それを奪い合う戦争がありました。しかし、国民国家が全世界的に広がる中でも植民地支配をされている地域が残っており、その後も力ある国が弱小国家を支配するため代理支配者としての独裁者を創りあげ、政治・経済的な支配を行なうことも少なくはありませんでした。イラクのフセインもアメリカが創り上げたその一人だったと思います。そのような強国の操りや支配者の下で民衆の苦しみは相当酷いものであるのは自分の韓国の独裁政権の経験からも分かることです。しかし、その問題と今回のアメリカによるイラク攻撃の問題は次元の差もあり、別格で考えたいと思います。
 現代の政治体制とその内容は、聖書の時代とは多くの違いがあります。従って、現代の戦争の問題を聖書から理解しようとするのは、非常に無理があると思います。特に新約聖書のなかで、イエスとの関連部分から現代の戦争に関する理解を求めるのは大変無理があるわけです。
 こうした場合、今のイラク危機というのをキリスト教者はどのように理解すればいいのでしょうか。無理矢理に聖書からその根拠を探し出す必要はないと思っておりますが、にもかかわらず内容的に近いと思う聖書を選びそれを基にしてお話を進めて行きたいと思います。
 その話の前に今のイラク危機に対して少し申上げます。現在アメリカやイギリスがイラクに対して行なおうとしている一方的攻撃の根拠として表に出しているのは「正義」です。格好いい表現ですが、この場合の正義と言うのは弱者を無視する強者の都合に合わせた一方的な正義論で、偽りに近い正義には違いありません。その正義論を理論的にくつがえすのはそれ程難しいことではないでしょう。しかし、問題は格好付けの理論にあるものではなく、それに勝る権力やそれに従属的なマスコミによって弱いものが蹂躙されている現実です。
 「非戦」や「反戦」の声が多く起き上がっているなかで、彼らがいう「正義」というのは、自分たちの利益のためであるのは良く知られております。しかし、そこで話が終わるわけにはいきません。やはり今でも多くの人々がこの戦争を食い止めようとしていますし、その一つの努力として、できるだけ一人でも多くの人にその問題が何を意味するのかその理解を分かち合おうとしているのです。人類の戦争は神様も止められませんので、その当事者である人々に戦争を食い止める責任があると思います。少し、楽観的に考えますと、結局のところ力の関係が優先される現実の中で、幸いにも今日のところでは、フランスやドイツが格好よく言ってくれて少し慰めにもなっております。その格好よさの裏には勿論彼らの利害が絡み合っていると思いますが、もしこの危機を避けることが出来ればしばらくは世界のバランスが取れるのではないかという甘い希望を持っているわけです。
 今日の聖書のことをこれらに関連して少し考えたいと思います。戦争に関するイエスの言行は、マタイによる福音書24の6に「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」というのがあります。戦争の問題をキリスト者である私たちはキリスト教と言う宗教の中から考えたい気持ちが多くあると思いますが、人類の歴史の中で宗教が戦争の問題に関わった場合、いい方向への解決より逆にややこしくなった場合が多くあると思います。ですから、ここでは新約時代のイエスの言葉をキリスト者、或いはユダヤ教徒という宗教者ではなく一人の人間の発言として理解したいと思います。勿論当時のユダヤ教という宗教性が濃い歴史的な状況を否定することはできません。
 先ず、今日の本文に関する背景について少し申上げたいと思います。この部分はいわゆる小黙示録と言われる部分です。つまり、その内容が終末に関するものであるということです。これは聖書文学の一つのパタンです。大体の場合その内容は現実離れのように見えるところが多くありますが、それは表面的なことで、本当は全く逆に現実への強いこだわりが作用したものと思います。それは七節の戦争に関する部分を読みますと「また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。」と書いてありますが、ここで出ている戦争と戦争のうわさというのは全くの事実無根の話ではなく、ユダヤ・ローマの戦争を前提にしているのです。即ち、13章の1節と2節に書かれている、神殿の崩壊と言うのはユダヤ・ローマ戦争の結果による実際の出来事であったということになります。
 この場合の戦争理解のことですが、当時の世界とは「パックス・ロマーナ」の時代でありまして、それは特にパレスチナの地域では戦争と言う大きな犠牲を払って確立されたもので、今の「パックス・アメリカーナ」による世界秩序つくりと似ている部分も少なくはないと思います。そう言った状況の中でイエスは、あえて戦争のことをここで述べられているわけですが、それはただの編著者の文学やイエスの言葉だけに止まるものではなく、目前に迫っている戦争の脅威に怯えている人々を前にして、この話を語っていたと思うわけです。それにローマが支配している状況の中で戦争を語ると言うのは、支配民族に対する被支配民族の挑戦という非常に強いリアリティを持っている言葉として見えているのは間違いでしょうか。
 もう一つ、この戦争には負けることが決まっていたかも知れませんが、確かなことは世の終りではないということです。そうしますとその戦争は何のためのことなのかの問題です。その部分がもっとも黙示的になっている部分ですが、先ほど申上げましたように、それは非常に悲観的に見えるんですね。地震や災難と同様に人間の力ではどうしようもない出来事のように見えます。神様もそれの阻止はできないように見えるわけです。しかし、黙示と言うのは全くの悲観論ではないと思います。先ほども申しましたように現実への強いこだわりからの希望の一つだと思います。黙示的出来事を新しい時代へのアプローチとして表しています。八節における産みの苦しみという表現です。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。」しかし、現実としてこのように大きな歴史的な危機の時に呼び起こされる終末思想は被支配国や弱者に起るものでありまして、決して支配者やその手先に起りはしません。今のイラク内の雰囲気はこれに近いと思います。黙示の対象は民衆に対するものということです。
 木田献一著『平和の黙示』を見ますと、黙示によって表される神の顕現と言うのは「この世の権力によって維持されている『平和』の体制を打破し、質的に新しい『平和』を生み出す。この新しい『平和』がシャーロームであり、これが神の支配する場を満たす内実である。」(14頁)と言っておられます。つまり、今のようなアメリカの権力によって維持されている偽りの平和体制を破り、神の支配の場にさせるのが黙示の内容であるということです。このことは九節以下の部分を読みますと、「あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。」私たちにとって福音はまさにこのような黙示の内容になるわけです。そして、それは広く広がることを意味します。それは一つの運動だと思います。宗教と言うのは少なくとも「時」と「場」を持って始まるものですので、始めは運動として起るものであると思います。その「時」と「場」の理解を前提に宗教の普遍性があると思いますが、それを離れますとあいまいな形で人間の魂の救いという形に変わって行くことになるのではないかと思います。
 そして11節を見ますと、「そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。」ここのところで語ると言うことがありますが、先ずどういう状況であっても語るのが前提になっています。そして、それは聖霊によるものであるとのことです。聖霊と言うのは神の働きです。私たちの平和、即ち人間の権利回復の運動の中で神様が共に働いておられることですが、しかし、それはどのような状況においても語る人の自分がなくては何一つ出来ません。その上で神が働いて下さることだと思います。戦争への反対、どういう形であっても今語らなければ福音にならないと思います。
2003年2月2日証詞より/ろば155号)
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