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    ろばと戦車(マルコによる福音書11:1-11)
 今日から受難週が始まりますが、特に今日の日を指して「棕櫚の主日」ともいいます。イエスがエルサレムに入城した日だと考えられているためです。この日は、ずっと昔イスラエルの先祖がエジプトの国で長い間奴隷に近い生活をした後、神によって解放された日を記念するお祭りが始まる時でもありました。棕櫚そのものに特別な意味があるかどうかは分かりませんが、この日イエスがエルサレムに入る時、お迎えの人々が手軽に手に入れることができる棕櫚の葉っぱを取って歓迎したことによって名づけられたと思います。しかし、この光景はこれから申上げるつもりの「ろば」の話とセットにして、「凱旋」や「解放」の軍、或いは王が「即位」のため入城する時、本来は「馬」に乗り、色華やかな「旗」で歓迎されるのにくらべ、ここでは素朴な形の「子ろばと棕櫚」という非常に対照的な姿を表しています。
 今日の聖書の箇所について、その歴史性については確認しておりませんが、過越祭というイスラエルの解放記念日を迎えるため、大勢の人々が世界各地からエルサレムに集まりつつあったと思います。その上、当時のイスラエルがローマの支配下にあったため、皆は小さな動きにも敏感に注目していたと思います。そのような状況でイエスという名が人々に飛び込んで来ました。そして、そのイエスが子ろばにお乗りになってゆらゆらとエルサレムに入ってくる姿から当時の人々は何を考えていたのでしょうか。信心深い人々は、ゼカリヤ書9章9節の「柔和な方で、ろばに乗り」という預言を思い浮かべていたかも。それらの人々がイエスに向かって「ホサナ、ホサナ」と歓迎の言葉を叫んでいたと思います。ホサナはヘブライ語で「我らに救いを」を意味します。しかし、この一寸した事件はその後、もの凄く早いスピードで転回されて行くのです。人々は自分たちが歓迎したイエスがユダヤ人の告発によって逮捕されたという噂を聞きました。またエルサレムには、ローマの総督が彼を裁くという話も広がりました。次に彼がゴルゴタの丘で十字架刑に処せられたという話が広がりました。この一連の出来事を当時の人々は単純な事件として見ていたかも知れませんが、それはやがてはじまる世界の新しい歴史の序幕を飾る大きな事件でありました。
 歴史のアイロニーでしょうか。丁度今週行われた英米軍のイラクへの侵略は、約二千年前に行われたイエスのエルサレムの入城と時期を一緒にしています。その意味は大きな違いを持っていますが、今日の聖書を理解するに当たってとても重要な助けになると思います。勿論あってはならない戦争ですが、敢えて皮肉として申しますと、歴史上滅多に得られないテーマとして今日の題「ろばと戦車」を与えてくれた侵略軍側に感謝をしながら今日の話を進めていきたいと思います。
 今度の英米軍のイラク侵略と関連してとても印象的だったのは、マスコミが見せてくれる場面としてイラクの群衆が、戦車に乗って市街に入っていく英米軍を歓迎している姿でした。勿論長い間、独裁者やその政権の下で苦しめられて来たこともあって、英米軍を本当に自分たちのための解放軍として見ている人もいると思いますが、しかし、マスコミのあの小さなカメラのアングルの中に取り収められたその映像がイラク市民の全ての立場を反映しているとは思いません。現実はその逆でイラクの多くの人々は自国の将来をとても不安に思っているのに違いありません。
 英米軍が戦車に乗って解放軍として名乗りながら入って行くその場面を、侵略軍側を支持しているキリスト教の一部の連中はイエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城する場面のように考えているかも知れませんが、私はそれより、イエスのエルサレム入城の日から何十年か前に、ローマ軍が戦車に乗って侵略者としてエルサレムに入城している場面が先に浮かんでしまうのは何故でしょうか。
 今後行われる侵略のプロセスとして考えられるのは、支配者ローマとユダの愚かな指導者たちが過越祭を避けて自分たちに反抗した者を反乱者と名づけ処罰したように、このイースターの期間を避けて支配体制を整えるための作業に急いで入るでしょう。そして、それには自分たちに従順な体制を作るため、イラクの民衆が最も欲しがる指導者を排除し、最も愚かなものを立てる作業が行われるでしょう。もしかするとイースターの前に英米軍はフセインを処刑するかもしれません。
 しかし、これらの動きは、イエスがろばに乗ってエルサレムに入城した出来事とはその意味が大きく違っています。そのことについて少し申上げたいと思いますが、その前に今回のことで個人的に思っていたことを申しますと、フセインと言えば愚かな偽りの預言者であったということです。最終的には多くの独裁者がそうであったように自分の欲をあきらめなかった為、自分だけでなく国をも滅ぼしてしまうわけです。そのため戦争の前にはフセインが政権から早く降りてほしかったのですが、戦争が始まった時には何としてもあの傲慢な英米の面子をつぶしてほしかったのも私の率直な気持ちでした。今回その思い通りには行きませんでした。そして今は戦争も終わりに近づいていると思います。が、戦争はそう簡単には終わりません。本当の戦争はこれからだと思います。途轍もなく長い戦争がこれから始まろうとしているのです。
 イエスの死後、世界の歴史は大きく動きました。イエスの死後間もない時期に、小さな群れであるユダヤの人々は勝ち目が全くないローマと戦い、結局その戦争に負け滅んでしまいます。しかし、戦争はそれで終わったわけではありません。彼らの戦争はほぼ2千年が過ぎた今でも当時とは別の意味で続いているのです。
 新しい支配者になろうとする英米は自分たちが正義の味方のように振舞っていますが、結局は世界を武力で支配しようとする、征服者、支配者たちに違いありません。これからイラクは英米側との従属関係になり、真の解放の日までは長い時が必要になるでしょう。私たちにそのことがどうして分かると思いますか。それは韓国やフィリピンを見て分かります。それだけではありません。日本も同じです。沖縄の歴史からもよく分かります。今の政治を見てもよく分かります。イラクはいつまでになるのでしょうか。否、彼らはさらにイラクを拠点にし中東地域を支配するのに決まっているわけです。
 今日の聖書に戻ります。先ほども申しましたように、エルサレムにイエスが入城するずっと前にローマ軍が戦車に乗って入って来ました。その道を今度は、ローマ人ではないユダヤ人の一人が、ローマからではなくイスラエルの最も貧しい地域であるガリラヤから、戦車ではなく子ろばに乗って弱弱しく入って来ました。一体このことは何を意味しているのでしょうか。
 その上何故か群衆はその人を熱烈に歓迎しているのです。勿論、その場にはあらゆる人々が集まっていたと思います。例えばガリラヤ人だけでなくエルサレム人も。障害者だけでなく健常者も。女性だけでなく男性も。子供だけでなく大人も。そして彼らには多くの共通点があったと思います。その一つは、待望・希望であったと思います。それは自分たちによって新しい世界を作ろうという希望であったと思います。もう一つは、彼らの手には立派な旗もなく、閃く剣のような武器もなく、道端でいつでも取れる棕櫚の葉っぱだけでした。彼らに残っている力はその葉っぱを取るくらいしかなかったのでしょう。支配者や侵略者に全てを奪われてしまったのでしょう。それでもいいのです。翌日には人に利用され、自分の心情さえも変えてしまう彼らにとっても、この日イエスは大切な人として見えたに違いありません。それで目いっぱい残った力、残った最後の夢を持ってイエスを迎えたと思います。しかし、彼らに一時でありながらも夢を与えたそのイエスにも現実では彼らを助ける何の力もありませんでした。はなはだしくはご自分が乗っているろばも人から借りたものでした。それでも良かったのです。人々はイエスに「あなたを支持します。私たちの小さな力ですが、合わせて協力します。今やローマや愚かな宗教指導者によって支配されているこの国を神の名をもって新しく作り直しましょう」と、小さなこぶしと葉っぱをあげて振ったのでしょう。
 今日世界中にはあのイラクの空を埋め尽くしたミサイルや爆弾は別として小銃の弾丸一玉も買う能力がない、さらに日々の糧のための葉っぱ一枚すら取る力も持っていない人々が非常に多い数でおられます。戦車に乗って侵略した者らが彼らを助けることが本当に出来るのでしょうか。侵略者に出来るのは民衆の力を抜き、民衆の夢をつぶすことだけです。
 時代が幾ら変わっても真の解放者は戦車ではなく、ろばに乗って来るものでしょう。そして真の協力とは民衆の連帯しかありません。(2003年4月13日証詞より/ろば156号)
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