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    キリストの残された受難(コロサイの信徒への手紙1:24-29)
 イースターを迎えるためのこの1週間、昨年から始めました受難週の家庭集会を今年も新しく5つのご家庭で食卓に招かれ、聖書を読み、思いを分かち合い、共に祈る貴重な時を過ごすことが出来ましたことは何よりのことでした。
 何時ものとおりですが、イースターの証詞を準備しながら考えましたのは、今日を生きている私たちにとってイースターはどういう意味を持つのかということでした。その時、イラクで3人の日本人が人質にされたというニュースが飛び込んで来ました。人質犯たちの要求は彼らが提示した時間のうちに日本政府がイラクから自衛隊を撤退させるということでした。この事件が今後どうなるかは分かりませんが、とにかく人質の命は助けられたらと思いました。そして、もし今日の礼拝が終わる時まで人質が解放されなかったら、私たちが出来るのは何なのかということでした。そして、思いつきましたのは礼拝後に行く予定であります砧公園への遠足を止め、首相官邸の前へ行きましょうという提案をしようかと思っていました。今朝のことですが佐沢勝美さんからお電話がありまして、礼拝後にのぼりでも作って永田町に行きましょうということでした。私と同じ考えを持っておられたのがわかりましてとても嬉しかったのです。そのようなところで新しいニュースが入り、無事に釈放されるという話を聞いて本当にほっとしました。(後に分かりましたがこのニュースは確認された情報でした。)
 しかし、イラクの状況は益々混迷している様子で本当に気持ちの落ち着きがありません。昨年の証詞を探してみましたら、パーム・サンデーの日に証詞を致しまして、その日が4月13日でちょうどその前の週間(9日)にイラクへ米英軍の侵攻が始まっていました。その日の証詞を見ましたら「ろばと戦車」(ろば156号)という題で、米英軍のイラク侵略についての話をしていました。もう1年が経過しましたが、イラクにはアメリカとイギリスが主張しているような平和は全くなく、より一層深刻な状態になっています。
 昨年の証詞ではローマの軍隊が戦車に乗ってエルサレムに侵略して来たその同じ道を、イエスがろばに乗って手には何も持たずに入城されたことについて申し上げました。その時は思いつきませんでしたが、今回の人質事件を見ながら考えましたのは、その一年前の米英軍が戦車に乗って進入した同じ道をその後、今回人質になった人たちを初め多くの方々がイエスと同じく手ぶらで、命賭けで、イラクの民衆と共に過ごしたいとの願いを持って尋ねて行ったということです。彼女彼らが乗っていたのは戦車ではなく、ろばでした。
 実は先週この道を尋ねたもう一つのグループがありまして、彼らも人質として捕えられてしまいました。しかし、その集団は直ぐ釈放されました。その人たちは韓国の福音主義総連合の牧師たちで、この時期にイラクへ宣教大会をしに行ったということです。つまり、福音のためには命もかけるというキリスト教の戦士たちです。しかし、英米の手先のようなものです。欧米の植民地時代の宣教師のような者らです。彼らの釈放にはお金を使ったらしいです。
 今回、人質になった日本人の3人も、イエスのように3日後に殺されるということでした。彼女彼らには身代金も無く、唯一頼りであった祖国のお下さんたち(勝手にお上だと思い込んでいる人々)も全く頼りになりませんでした。そのお下さんの首領格の小泉政権の官吏たちはいつごろから聖書を読んでいたのか、自分たちをピラトと勘違いしているようで、自分たちには全く責任がないと手を洗っていました。
 私の心に残るもう1つの疑問であったのは、もしも彼女彼らが犠牲になった場合、彼女彼らが3日後に復活する可能性はどれほどあるか、でした。インターネット版毎日新聞に今回の事件があってから今朝までの自衛隊のイラク派遣についての意見投票がのっていました。私も撤退賛成に投票しましたが、それを見ますと自衛隊撤退を反対する人が投票者数の68%で、撤退すべきだと思っている人が29%でした。勿論、他の世論調査では反対する人が43%だと言ったところもありました。このような状況を見ていますと、復活はまだ遠いのではないかと思いました。
 今日の聖書であります、コロサイの信徒への手紙はパウロの死の直後(紀元60年頃)に、パウロの弟子の1人が書いた文章として見ているものです。その中で少し気になった部分は24節と28,29節の2箇所です。
24節「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」
28,29節 「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」
 24節の後ろの部分、「キリストの苦しみの欠けたところ」というのが特に気になるところでした。イエスの苦しみの欠けたところというのはあれ程苦しまれ、死なれたにもかかわらず、何を欠けたといっているのかという点です。このことは何を意味しているのでしょうか。何を私たちに示そうとしているのでしょうか。実は今日の証詞の題「キリストの残された受難」というのはこの部分から私なりの理解で書き換えたものです。つまり、キリストの受難はまだ終わっていないという理解です。イエスのあれだけ凄まじく受けた苦難で全てのことが成し遂げられていないという理解です。そして、その残された受難というのはパウロを初め、イエスを知ったすべての人に引き継がれていると考えられます。勿論、私たちにもと思います。
 何故このような理解が出来るのかということですが、一つは当時のキリスト教の周辺にはグノーシスという考えを持つ集団がいました。そしてその考え方がキリスト教の内部にも浸透して来ました。これは非常に難しい問題を引き起こしましたが、それはいわゆる二元論的な考え方でした。例えば、グノーシス主義的キリスト教では霊だけが本物で、それだけが救われればいいということでした。他にも仮現説というのがありまして、イエスは人間の肉体を借りて現れた神であるため、肉体における苦難や死は、本物の苦しみではないという考え方もありました。
 このような考え方は今でもキリスト教界の一部に根強くあり、それは他宗教や社会・政治的な問題に対して、例えば日の丸・君が代の問題やイラクへの自衛隊派遣の問題等をキリスト教の信仰とは違う次元の問題として認識し、関与すべきものではないと考えている点です。
 イエスの復活はキリスト教だけの所有物ではありません。イエスご自身がキリスト教を作り、ご自分を信仰するものだけを救うためにその生涯を送ったとは考えられません。全ての人々とその歴史を救うためでありました。それは神と人類が共に生きるためのもので、平和であり、愛であり、希望であると思います。
 もう1箇所の28節、29節は、このキリストを宣べ伝えることがキリストに結ばれたものの道であるということと、そのために労苦し、働き、闘っているということですが、それは先ず、2千年前のイエスの受難と死と復活を通して、その救いの目的が全て完成されていないことを示していると思います。そして、キリストを宣べ伝えるというのは、イエスがその生涯において、神と世界に応えようとしていたことと同じく、今、私たちも神と世界に応えなければならない責任があることを教えているのだと思います。その時に考えられる挑戦が、キリストの残された受難ではないかと思うのです。
 イースター、それは喜びの日でありますが、しかしその喜びだけで終わるのではなく、その中に私たちに課せられた歴史への責任・任務・使命があるのを忘れてはなりません。それがキリストの残された受難であるということです。イエスに出会ったものがその受難を避けることが出来ないということを少なくともパウロの弟子たちは悟っていたと思います。3人の人質たちが、本当のことはよく知りませんが、日本人であれ、非キリスト者であれ、それとは関係なく、彼女彼らはイラクの苦しんでいる人を思い、その人たちと一緒に過ごしたいという点から見ますと、その人たちこそ残されたキリストの受難に参加している人のように見えます。
 イースターにこのような話とは心を重くすることと思いますが、イースターが人類の救いの出発点であるとすれば、神の人として私たちも今日という日が自分に残された、いとなみの新たな出発点に立つことであると思います。
(2004年4月11日証詞より/ろば160号)
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