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    歴史の未完結と夢を見る人(申命記34:1-12)
 申命記の最後の部分である今日の聖書はいわばモーセのピスガの山での失踪事件の話です。4節に「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」と書いてあります。この部分を読んで感じるのは、何故モーセは目の前にあれだけ求めていた約束の地が見えたのにそこに入ることが出来なかったのか。何故トーラー(モーセ五書)はこの失踪事件の話で終わってしまったのか、何故カナンの地でのことはトーラーに入っていないのか、といったことです。
 聖書はこの疑問についてそれなりの解釈をつけています。例えば、モーセが約束の土地に入れなかったのが彼の年齢や健康状態のせいではなく(4節)、イスラエルの人々の罪のせいであるような説明です(1:34-37)。出エジプトの過程でイスラエルの人々の神への不信仰的な様子の幾つかは見つけることができます。しかし、モーセや彼と共にエジプトを脱出した多くの人々が荒野での不信仰によってカナンへ入れなかったとする考え方は、イエスの苦難と死が私たちの不信仰や罪のせいだと理解するのと同じように、人間=罪人であるような偏った普遍性が作られ、人類の歴史を何時までも否定的面から見、無責任で傍観者的な立場を取ってしまうのです。宗教の多くが、そしてその指導者らがこのような歴史に対する立場を固持しているのも昨今の現実です。勿論、人間の過ちを否定するのではありません。しかし、その過ちを犯しているのは大体の場合は力を持っていて人々を支配し、抑圧した者らでした。その状況を無視し、罪を普遍化するのは主犯人を逃し、抑圧的な現実をそのまま認めてしまう大きな罪に繋がります。もしそうでしたら、あのモーセが荒野からエジプトへ戻った時の、そして、呻き声を上げていたイスラエルの人々が彼と一緒にエジプトを脱出した時のその勇気と行動は何であったのか、彼らは神が支配する歴史の中で単に罪人であるのを確認するためのエキストラであったのか疑問を感じるのです。荒れ野での40年間の彷徨というのは、何百年間も自分のアイデンティティを抑圧的な状況によって忘れさせ、植え込まれた奴隷根性、被植民地根性を振り落とすための過程であり、解放の期間であるため、当然過ちを含む問題が多発するはずです。隣の国の韓国は僅か36年間行われた日本の支配の痕が60年経っている今でも残っているのを考えますと、このように理解するのは無理ではないと思います。
 そういった意味でモーセの失踪事件を含む出エジプト事件を既存の罪とかいうような宗教的で消極的な観点からではなく、歴史的で積極的な観点から考えて見たいと思うわけです。それは歴史における夢という観点です。歴史における夢とは個人的な夢にとどまるものではなく、他者との共存への夢という風に考えたいです。出エジプト事件はイスラエルの人々の呻き声から始まり、それをヤハウェ神が聞いて下さったことから始まったものでした。そして初めのうちこの夢はイスラエルとエジプトを分けているように他者と共存できないところから始まっています。しかし、それが最終的には人類の共存への夢の出発点になったと考えられます。つまり、この二者を永遠なるライバルに作り上げるためではなく互いに認め合う、共存しあう関係への出発点であったということです。この観点から考えますとモーセが約束の地へ入らずに中途半端で終わっているようなこの話は、決して打ち砕かれた夢の話ではないと思うのです。
 この観点から出エジプトに関する聖書を読みますと、モーセもその夢を見た一人の人であったと考えられます。モーセが夢を見る人になったそのプロセスを要点だけ振返って見ます。自分の命を救うために単身でエジプトを脱出したモーセが再びエジプトに戻るのですが、そのきっかけになったのはホレブの山で燃えているが燃え尽きない柴との出会いでした。それまで彼は一凡人として自分の家庭を作り、日々その家族のために働きながら過ごしていました。ヤハウェ神との出会いの中で燃えているが燃え尽きない柴とは非常に重要な意味を持っていると考えられます。単に神の奇跡として見るのは正しい理解ではないと思います。それはモーセ自身の中に今でも消えていない、同族への思いであったと思われます。エジプトで苦労をしている、エジプト人と何処が異なるのか分からないが自分とは同族と云われている人々が最底辺で常に虐げられている記憶が彼から離れなったのです。それこそが燃えてはいるが燃え尽きない柴であったのでしょう。この場は、エジプトで虐げられている人々の呻き声とその声の聴取による神の痛み、モーセの燃え尽きない人々への思いが出会い、初めて出エジプトの夢を見る瞬間であったと思います。そしてその後、その夢は少なくとも出エジプトの行列に加わった一人一人にも共有され、申命記の最後である今日の聖書の九節に「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。」と書かれ、ヨシュアにこの夢が引き継がれていたのです。特に、この箇所にヨシュアが智恵の霊に満ちていたという表現がありますが、その智恵の霊というのはモーセが持っていた、そしてイスラエルの人々が持っていた夢であったと考えられます。そして更にその夢は出エジプトの人々に限るのではなく、何時の時代にも抑圧され、差別され、苦しんでいる人々にも引き継がれていくのです。例えば、2千年前のイエスは神の国の夢を見ていました。そのイエスの夢もこの歴史における人類共存への夢であります。その夢を共有していた人々が当時の周縁地域であったガリラヤにも大勢いました。20世紀においてもアメリカ黒人たちがこの夢を見る人でした。マーティン・ルーサー・キングやマルコムXという人の名前が記憶に残っています。今でも多くの人々が抑圧の状況の中でその夢を見ています。
 しかし、全ての人々がこのような夢を見ている人ではありません。人類の歴史には必ずと言っていいほどこのような夢を打ち壊す勢力が存在しました。彼らがイエスを殺しました。キングやマルコムXも殺しました。宗教、ユダヤ教やキリスト教も彼らを大きく手伝いました。多くの宗教は宗教自身のために存在し、この21世紀の初めにもアメリカのキリスト教の一部では共存の夢を打ち砕く側を擁護しているのです。
 このモーセの失踪事件とトーラーの終わりには共通点があります。両方とも完結していないという点です。聖書学者にはヨシュア記を入れてモーセ六書と言っている人もいますが、私の個人的な信念としては聖書学的な主張は出来ませんが、未完結のままのモーセ五書に深い魅力を感じます。もしヨシュア記をトーラーに入れてしまいますと、それはまるで使徒言行録を福音書に加えたような感じがするのです。何でも完結したいのが人間の欲望かも知れませんが、人類の歴史は一度も完結したことがありません。カナンに入ったとしてもそれで完結ではありません。新たなる分裂が始まるのです。キリスト教が始まったとしても完結ではありません。個人的信念というのは完結されない人類の歴史の中でも消えないで残り続けてきたこの歴史における夢に対する希望ということです。そして、出エジプトの歴史では未完結ではありますが叶えられた部分がありました。出エジプトや紅海を越えたのは、そして荒れ野の40年間の旅は叶えられた夢だと考えられます。人類の歴史には多くの抑圧からの解放の歴史が記憶として残っています。たとえ、歴史がモーセの失踪事件のような完結されないものといっても、人々はその叶えられた記憶を持って、そして引き継がれた夢を持って、ヨシュア記を書き、記憶を書き残し、書き続けてきたと思うのです。従って、この話の最初に思いました疑問は未完結であり、進行中の人類共存の夢を象徴し、その中で自分はどうするべきかを問い質すものであると考えたいのです。
 信じることは頼ることではないと考えます。信じることは神の思いを共有することだと思います。預言者やイエスも神の思いの共有者であり、聖書の続きの書き手でもありました。
 救いは所有するものではないと考えます。救いは歴史における叶えられた夢の記憶を分かち合うことだと思います。
 今日も世界には多くの人々が抑圧的な状況の中からの脱出を夢見ています。人と人、民族と民族、国と国などとの間で最初は小さく思われるそれらの望みも、究極的には人類共生共存の望みという大きな流れに繋がります。私たちの歴史をそこに近づけるには、先ず自らが歴史における夢を共有するかどうかに関わる問題だと思います。
(2004年7月25日の証詞より/ろば161号)
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