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    あなたはどう考えますか(ヨハネのよる福音書8:1-11)
 「姦通の女」と小見出しが付いているこの箇所はヨハネによる福音書だけに載っているものですが、キリスト教だけでなく、一般の人々にも多く知らされている内容ではないかと思います。とても美しい内容ですが、同時に最も厳しい内容だと思います。
 この箇所の前後には何故か特別な括弧が付いています。それがあらわすのは後の時期に追加されたというしるしです。元々この場所にはなかった内容であったということです。いつこのようなことが行われたのかはさて置きまして、要するにこのような内容を聖書に載せるか、載せないかという教会内部での葛藤と対立の後に載せられたという話です。その理由とは時代が経ても変わらないことですが、こういう場合赦したくない気持ち、赦してしまうと社会的秩序が壊れてしまう等の考え方です。
 にもかかわらず重要なのは、何故かこの文章が最終的にこの場所に載せられたということです。どうしてなのでしょうか。一つ確実なのは、イエスの短かった生涯における教え、或いは活動と一貫する内容であったということでしょう。そして、ヨハネによる福音書での位置づけはイエスの最も重要な時期に当てられたことです。私見としては受難週における最高の傑作ではないかと思っています。
 この部分を選びましたのは、昨今、小泉政権によって無謀とも思われる、日本国憲法を始めとする一連の法「改正」のための行動を見ながら、考えさせられる部分がありましたので選びました。この聖書の内容は一言でいいますと、罪びとを赦すか赦すまいかの問題ではありません。イエスという人物を、そしてイエスという世論をつぶそうとする既得権者との戦いの部分として考えられます。
 イエスは過越し祭りの時を間近に迎え、エルサレムに行き毎日のように神殿に通いました。そのある日のことです。人々がイエスの教えを聞こうとしてイエスの周りに集まりました。人々がいろいろ話を聞いていたところ、当時の体制側の指導層にあたる律法学者やファリサイ派の者らが1人の女性を、人々の輪の中に連れ込んできました。そして、彼らは人々の前でイエスに尋ねます。
「この女は姦淫の現場で捕まった。律法にはこの場合この女を石打にして殺すように書いている。あなたはどう考えているのか。」(4節)
 言ってみると、彼らは人の商売に乱入し妨害をしているのです。要はこの女性をどうするかの問題ではありません。イエスとイエスという世論を押しつぶし、同時に自分たちの正しさをアピールしようとした出来事です。そういった意味ではこの女性も既得権者のための犠牲者の一人であったのではないでしょうか。
 もしこのテーマでロールプレイをすることになったとしたら、皆さんは誰の役を演じたいでしょうか。イエスですか。この女性でしょうか。律法学者でしょうか。もう一つ重要な役が残っています。判断力を失い揺れ動いている人々の一人です。
 幸いといえるのか彼女はイエスによってその運命が定められるようになっています。しかし、この女性の運命はイエスがどのような立場をとっても死ななければならないものです。彼らが考えている律法によってです。イエスとしては2つの立場を取ることが考えられます。一つは、イエスが彼女を皆と一緒に石を投げ撃ち殺すことです。そうしますと自分は生き残ります。もう一つは、自分はこの女性の罪を赦すといって、皆の前で律法に違反することです。女性を連れてきた人たちは後者を狙っていました。
 しかし、この出来事の場面は想像もしなかった方向へ展開して行きました。それは、皆を既得権者のイデオロギーから解放してあげたのです。その意味でこの話の焦点は女性でもなく、民衆でもなく、イエスでもなく、イエスを殺そうとしていた人々ではないかと思います。
 話が少しずれますが、この場面で連想するのは、全体主義国家で行なっていた公開処刑です。当事者への弁明の機会も与えず、弁論もありません。言い換えますと、これは一種の律法をイデオロギーとした全体主義であります。裁判もありません。この主催者たちは世論だけを煽って人を殺しながら自らの正義感を味わっているのです。それによって自分が誰より正しい人間、義人であるのを見せかけているのです。他人を犠牲にして得た自慰です。彼女を連れてきた人間たちは1人ももれなく、自らが女とは絶対違う部類の人間だと思っていたでしょう。彼女を殺すことによって自分の宗教的な正しさが認められるのです。
 勿論、聖書のこの部分の内容は彼女の行為の事実を前提としながら話を進めています。しかし、この場面を良く読めば分かりますが、そこに集まっていたひと全員が姦通の現場を見たわけではありません。誰か1人が現場を目撃したか、或いはその人も人から聞いた話かも知れません。見てもいない事実の正しさをイエスにも押し付けます。自分たちに同意せよと責めているのです。これが全体主義の世論操作です。このようなことは戦時中の日本で、ナチズムの独逸で、独裁政権下の韓国でもありました。この現場ではイエスもそのイデオロギーに同調しなければなりません。ある意味で、昨今の小泉と自民党政権が共謀罪を新設しようとし、教育基本法や日本国憲法の改憲を強制しようとする背後にある現実ではないかと思います。ありもしない、戦争やテロやあらゆる有事を持ち出して同調せよと世論を使って煽り立てているのです。
 多くの人々は新聞記事を鵜呑みにして、確認もしていないのに自らがその証言者として働きます。自主的な判断能力の欠如です。このような社会は不安定になります。その過程で少数意見は踏み潰されます。市民一人一人に不安感を与えます。人が人を信用しなくなります。それが体制側の狙いです。改憲主義者らもいつかその現実に自分が立たされると思います。
 このような時に重要なのは他人がどう判断するかの問題ではなく、自分がどう判断するのかという決断が必要になります。「あなたはどう考えているのか」と既得権者らのイエスへの問責に対してイエスが見せた仕草は、この問いを彼ら自身に戻させました。6節と8節に執拗に問い続ける彼らの前でイエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始め、又書き続けられたと書かれています。それはその現場に立ち会っている一人一人に「あなたはこのことをどう考えているのか」という反問ではないでしょうか。
 このような沈黙を通して、イエスは不純な理由で大衆心理を煽る者たちの虚構を暴露し、それに惑わされた一人一人を扇動者から解放させ、我に返したのではないかと思います。同時に既得権者らにも自ら建てたイデオロギーをもう一度考え直すように時間をあげているのではないかと思います。もしこの場でこの女性を殺した場合、世の中は秩序が守られ、綺麗になるかも知れませんが、人々の間には深い不信の溝が広がります。私たちの時代に経験したナチスのような全体主義は一度走り出すと壊されるまで止まりません。老若を問わず6百万人の無垢なユダヤ人を殺し、1千万を超える人々を戦争の犠牲者にさせました。イエスのこの無駄に見える行為の一瞬は、人々をそのドン底に落ちるところから救ったのでしょう。驚きますのは現場にいた一人一人が皆我に返ったということです。
 9節を見ますと、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」と書いています。成り行きから考えますとこの二人は何も言わなくても互いを認識しています。彼女は逃げ隠れしていません。イエスは彼女に、いいからあなたもさっさと帰りなさいと言っているわけでもありません。このことを忘れてしまえというのでもありません。ここにも存在する沈黙は、最後にこの問いを彼女からイエスへ向かわせたのではないかと考えさせます。「イエス、あなたはどう考えているのでしょうか?」
 二人は向かいあっています。じっと相手の顔と目を見ていたのでしょう。そこには抑圧的な世論が入る余地はありません。人が何を言ったって構いません。私とあなたの問題です。聖書には一言書かれていますが、本当はなくても分かります。彼女は命を助けられた喜びより、心の底から新しい生への意志が湧いて来るのを感じたでしょう。そして、彼女は新しい人生を始めたでしょう。しかし、残念なことにこの小さい出来事の直後、執拗な既得権者らの石はイエスに向けられました。(2006年4月30日の証詞より/ろば168号)
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