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    蒔かぬ種は生えぬ(マルコのよる福音書4:26-29)
 福音書にはイエスのたとえ話が多くありますが、その多くはイエスが弟子たちに神の国について教えるためのものと言われます(4章11節)。勿論、神の国というテーマは福音書全体、更に聖書全体に当てはまることと思います。
 今日はマルコによる福音書4章26節以下の種蒔きに関するたとえ話について考えたいと思います。4章には種蒔きに関するたとえ話は前半部にもあります。今日読んだ箇所には「『成長する種』のたとえ」という小見出しがついています。
 この箇所の内容は小見出しを見ますと植物が成長する話のように見えますが、聖書につけられている見出しは時々偏見や先入観を注入するのに役立って、本当の内容、或いは違った見方の邪魔をする時もあります。従いまして、聖書の読者は読みたいところを先ず読んで見て、ご自分で見出しをつけてみる面白さもありますし、幅広く聖書を読む良い方法ではないかと思います。このように読みますと今日の本文も違う角度で読むことが出来ると思います。
 たとえば今日の本文を読む時、「『成長する種』のたとえ」の部分は小見出しを先に読みますと「成長」という単語だけが鮮明に目に付くことがあります。人間誰だって成長が好きで、成長がにぶると苛立ちますので、「成長」という言葉は皆にとても好かれます。
 しかし、この話をもう一度読み直しますと、別の角度からも私たちに教えられるところがあります。成長という考えにこだわらないで読みますと、他にもいろんなところが見えて来るはずです。先ず、この種蒔きに関するたとえ話には前提があることに気がつきます。それは26節の後半部に「人が土に種を蒔いて」という内容です。殆どの種蒔きのたとえ話が種を蒔くことから始まっているのは当たり前のことと思います。しかし、このことは残念ながら成長、或いは収穫という観点からはなかなか見えてこない部分です。蒔くことが大前提であること、成長するかしないか、石だらけの土か茨の中かを問う前に種を蒔かない限り、全ての話は空論に過ぎません。そういった意味で、これまでにも何度か種蒔きのたとえ話を以ってお話しましたが、今日は「成長」ではなく、「蒔く」という部分に焦点を合せて考えてみたいと思いまして、題を日本の諺を借りて「蒔かぬ種は生えぬ」としました。
 ということは種を蒔いたら全てがうまく成長して行くのでしょうか。違うと思います。種一つ一つにも持っている性格が違いまして、途中成長が止まったり、病死するものもあり、うまく成長しても実らないものも出ます。成長のスピードが遅いものもあり、早いものもあります。しかし、そのようなことを恐れて種をまかない訳にはいきません。農夫は適切な時期が来ますと必ず種を蒔きます。蒔くことが何より大切なことです。全てはそこから始まります。福音も種を蒔かない限り、成長の話はできません。
 勿論、この種蒔きの話は農業の話に限るものではありません。福音書が訴えようとするのは人類に対するものです。人が生きる環境としての社会、そしてその成長のプロセスとしての歴史、などに関わる話です。種にもいろんな種類があります。イエスは世界という畑に種を蒔く人でした。福音という種を蒔いておられました。その具体的な内容とは、争いあうところに平和の種を、憎しみあうところに許しと愛の種を蒔いてくださったことです。そして、私たちもそれにならって種を蒔いております。
 特に、日本のキリスト者たちは、あの戦争が終わった61年前から、イエスにならって日本という土に種を蒔いてきたと思います。その種は平和の種でして、蒔くには最も適切な時期でした。その時戦争という種は二度と蒔かないと誓っていたと思います。しかし、この頃見ますと、平和の種より、毒麦(マタイによる福音書13章24節以下参照)の方がもっと成長したような気がしまして焦ることが度々です。
 今年の8月15日小泉氏が靖国神社に公人として参拝をしました。毒麦の代表でしょうか。次の政権を狙っている安倍氏はこの国に毒麦を蒔くと公然と言っています。もっと成長させるべき平和憲法を取り除き、そこに戦争の種を蒔きたいと言っています。一人一人違っていいのに、同じ型にはめ全て同じものを生産しようとするのです。国家のための個性の抹殺ですね。深刻な問題です。一体どうすればいいのか分かりません。このような時こそ沈着に考えなければなりません。一体どうなったのでしょうか。そしてどうしたらいいのでしょうか。
 答えは一つです。今どうであれ、明日どうであれ、種を蒔くしかありません。明日全て取り除かれることがあっても今日種を蒔くのです。気が遠くなる話ですが、それしか方法がありません。イエスのように死ぬことがあっても種を蒔かなければなりません。聖書にはこのような姿勢を取るのに重要な要領が書いてあります。そして、このことは今私たちが焦る理由でもあります。それは殆どの人の関心が収穫にあるということです。当たり前のことですが、自分が種を蒔いてなくても、自分が水も肥料もやらなくても、収穫だけはしたいと思うのはごく自然な考えかも知れません。焦るのは勿論、この収穫が出来ないところから来ます。自分が蒔かなくても焦るのに、もし自分が蒔いたものでしたらもっと焦るはずです。
 ヨハネによる福音書四章に飛びますが、36節以下で三つの言葉を拾って読みます。36節から「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」、37節から「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」、そして最後に38節から「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために・・・、他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」というところです。ここで述べられているのは、蒔く人と刈る人が別々である点です。何故このようなことが書かれているのか理由はわかりません。ただ、無理な話ではないことは理解できます。もう少し余裕をもって考えますととても理にかなう話です。例えば、私たちが子どもを生み、そしてその子どもを全ての愛情を注いで大切に育てます。それは、家畜のように将来自分で食べるためにする行為ではありません。自分も同じです。親の労苦の実りにあずかっているのです。親は自分が刈り入れなくても子どもの成長振りを見ながら共に喜びます。
 今私たちが何故平和を望んでいるのか。否どうしてこのように平和で暮らすことが出来たのか。勿論自分の能力でできた訳ではありません。必要もなかった戦争を通して苦労を経験した人々が蒔いた種によるものです。焦る理由の多くは蒔いてもいないのに収穫を望んでいること、蒔いたものを自分が収穫しようとすることにあるのではないでしょうか。しかし、聖書は私たちに収穫することより、種を蒔くことを多く教えています。私たちが蒔いた種が100年後、あるいはもっと長い年月を経て収穫されるかもしれません。蒔く人には夢があります。農夫は自分が食べる分量の何倍も種を蒔きます。汗を流す時にはそれを食べてくれる人を思いますと喜びを感じます。
 そして、「成長」というのも、人の努力だけで出来るものとは限りません。否、聖書は成長それ自体は私たちがどうすることもできないと教えています。良い土を選ぶ、水をやる、肥料をやる、雑草を抜くという行為はあくまでも成長を手伝うことで、成長そのものではありません。野の草や花と同じく、そのようなことをしなくても蒔かれた種は育ちます。植物は天から降る雨と太陽の光で、そして土の養分を吸い取って成長します。そのことを27節では「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」と表現しています。こういった意味から本文を読むと成長論でもなく、発展論でもないことが分かります。
 このことは何より種を蒔くことが重要であるということです。いくら荒れ果てた畑でもそれしかない人にとっては取りあえずそこに種を蒔かない限り収穫は期待できません。日本の現在の問題は自分が蒔いて、自分が刈り入れようとすることにあると思います。そして収穫への強い思いは種蒔きを一時的に中断させます。長い間日本の良心的な働きをされて来られた方々に後継者がいなくて困っている姿を時々拝見します。教会も同じだと思います。
 聖書では我々をイエスと共に種蒔く人とたとえられています。刈り入れる人としては決して描かれていません。弟子たちは蒔きもしないで刈り入れようとしてイエスに叱られる場面があります。種を蒔くことはある意味で命を蒔くことだと思います。そして、種を蒔くその土は歴史でもあります。私たちがもし愛と正義、平和という命の種を歴史という土に蒔いてきたとしたら、その手を休まず今後も蒔きつづけなければなりません。(2006年8月20日証詞より/ろば169号)
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