戻る
    平和への道(イザヤ書32:15-20)
 最初に皆さんにある本の序文をご紹介したいと思います。以前教会の友人から頂いた本ですが、『戦時下抵抗の研究』という本です。1968年に同志社大学人文科学研究所が編纂して、みすず書房から出されたものです。
 「戦争責任問題が日本の思想界で論ぜられていた頃、一番鋭い反応を示すかと思われたキリスト者が、鈍くてずるい反応しか示さないように思われた。
 多くのキリスト者にとって、戦争中自分たちの取った行動は、思い出したくないし、歴史の上から抹殺できるなら、抹殺してしまいたい事柄であるかもしれない。・・・新しい戦争の危機がじりじりと迫ってきているときに、いい気になっていられるはずのものでもないだろう。そんなことで、日本のキリスト教の明日があるとは思えない。戦争中、キリスト教会の指導的地位にあった人たちが、戦争終了後、神と人の前にざんげをしないで、逆に自己弁護に熱心であるということ、自分たちが努力をして、かろうじてキリスト教会を守り抜いたのだというような自己宣伝をすらやっていることが、われわれとしては気がかりであった。」
 この文章は一部の人々の説に過ぎないと言えるかも知れませんが、わたし自身を含む韓国のキリスト者にも身にしみる言葉でしたので読ませていただきました。というのは韓国での民主化闘争の中で、教会はどの様な姿勢をとっていたのかというのを考えたとき、決してこの文章が日本だけの問題ではなく、韓国の問題、否、世界のキリスト者が自らに聞かせる文章でもあると思ったからです。同時にこのようなことに再びならないことを願うためです。
 今日は話を少し、東北アジアに広げて考えたいと思います。
 さる10月9日に北朝鮮が核実験の成功を発表したという報道がありました。その真偽やその後の政治的な動きは別にして、本当にそうだとすれば、東アジアに大きな脅威となるのは誰もが認めると思います。
 そして、日本は昨日、以前から進めてきた案で、衆議院で防衛庁も防衛省に昇格するのを決め、参議院に送りました(その後参議院も通過し、現在防衛省になっています)。それに愛国心を主にする教育基本法の改正案も衆議院を経て、現在参議院で審議中です(この法案も通りました)。さらに憲法九条の改正に拍車をかけるようになるでしょう
 北朝鮮と日本のこの二つの変化は、ある意味で共通点を持っています。ここまでに至る幾つかの言い訳はありますが、両方とも自国を中心とする動きで、それが近隣諸国に不安感を与えているということです。
 戦後60年が過ぎた今でもこのように戦争への火種がまだ完全に消えないで、再び燃え上がろうとしています。このような時、私たちキリスト者はどの様にして、近隣地域である東北アジアでの平和を守って行くことが出来るのでしょうか。
 私は15年前に来日してからずっと日本に住んでいます。言葉が聞こえるようになってから、多く聞こえてきた言葉がありました。それは「平和」という言葉でした (エレミヤ6:14) 。今でもあまり変わりはないと思っています。アイロニーですが、先ほど申しました北朝鮮と日本の二つの変化も平和のためだと言い訳しています。それは一種のカルチャショックでした。なぜならば、それは私自身を含めて、韓国、否、朝鮮半島に住んでいる殆どの人が、朝鮮戦争後それまでの40年間、切実に望みながらも口にすることが難しかった言葉でした。朝鮮半島では北も南も常に戦争のことを考えていました。男の人は適齢になりますと軍隊に行って人を殺す練習をしなければなりません。その中で、平和という言葉より、統一という言葉を常に口にしました。それが意味するのは、朝鮮半島での平和というのは統一を前提とするため、イデオロギーが違う立場にいる二つの体制が一つになるためには再び戦争するしかないという論理だったのです。しかし、この15年の間、少なくとも韓国では社会的状況や人々の考え方が大きく変わってきました。今は多くの人が戦争をしない平和を求めるようになりました。
 今日の聖書をご一緒に考えたいと思います。
 イザヤは紀元前8世紀の後半に、エルサレムで活動した預言者です。紀元前8世紀に登場する預言者は他にも、アモスやエレミヤなどがいます。彼らの特徴はそれ以前の預言者らがイスラエル民族の繁栄をメインテーマにしたのとは違いまして、ヤハウェがすべての民族の神である、即ち、世界を支配する神という信仰を持っていました。その背後には当時の世界の動きが反映されていたと考えられます。当時、周辺世界ではアッシリアや、新バビロニアという軍事大国が登場して、近隣諸国を脅かしていました。北王国イスラエルは紀元前721年にアッシリアに滅ぼされます。そして、南王国ユダも風前のともし火のように緊張の最中で、人々はどうすれば良いか判断ができず右往左往していました。今の北朝鮮の核実験による東北アジアの情勢よりもっと緊迫感があったと思います。ユダ王国の王や官僚らは軍事的、外交的な面から自分たちのパートナーとして誰を選ぶかを悩んでいました。アッシリアを選ぶか、新バビロニアを選ぶか。或いはエジプト、または小国連合のどちらと連帯するべきかを考えていました。
 こうした状況の中で預言者イザヤを初めとする預言者らは、体制側とは違った考えをもっていました。それは、ユダが近隣諸国の力に頼らないでヤハウェだけを信頼し頼れば、必ず神が守って下さるということでした。この時の神を頼ることが具体的に何かは後で申し上げます。
 このような中であの有名なインマヌエルの預言がイザヤによって発せられますが、それはイザヤ書7章14節に書かれています。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
 この預言は今日のお話と関連する内容ですので、少し説明したいと思います。「インマヌエル」とは、イエスの誕生とも関連する内容で、「神は我々と共におられる」という意味であります(マタイ1:23)。他にもモーセ(出3:12)、ギデオン(士6:16)、サウル (サム上10:7) にも告げられます。しかし、このインマヌエル預言は、単なる神が共におられるというご利益的な約束ではありません。神様を拒否する者には、「Notインマヌエル」、すなわち神との関係が直ちに切られるという審判をも意味します。
 それではイザヤが言う、神を信頼し頼ることで約束される「インマヌエル」の内容は具体的に何を意味するものであったのか、その答えを今日の本文から考えて見たいと思います。
 ついに、我々の上に霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿憂いなき休息の場所に住まう。しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。すべての水のほとりに種を蒔き、牛やろばを自由に放つあなたたちはなんと幸いなことか。
 夢のような話です。しかし、この予言を具体化する人物が現れるという預言が32章1,2節に書かれています。とても良い文章です。
 見よ、正義によって一人の王が統治し、高官たちは、公平をもって支配する。彼らはそれぞれ風を遮り、雨を避ける所のようにまた、水のない地を流れる水路のように乾ききった地の大きな岩陰のようになる。
 このインマヌエルの内容は、イスラエルがヤハウェを信じることによって眞の正義や公平による支配、即ち真の平和、特に人々の間に安泰と信頼があふれる関係を築き上げるということです。そして更に諸々の民族や世界が為政者の正義や公平によって治められ、そこに生きる人々の間に安泰と信頼関係が溢れる、まるで荒れ野が園に変わることが起きるということです。そしてこれらの預言は預言者が当時の王国の指導者と対立しながら発せられた内容です。
 このようなイザヤの行動は今の私たちが、為政者に何をすべきかを教えてくれる部分です。キリスト教は戦時中、体制側と一体であった国家神道のような祭儀宗教ではありません。危機の時黙っているのではなく、為政者に戦争ではなく平和を求め、人々が信頼しあう国を創って行くことをはっきり言うことです。
 日本においてキリスト者は今の情勢に立ち向かうには小さすぎます。しかし、こうやってソウル老会の皆さんと共に一緒に祈り合わせ、神を信ずる信仰とその教えに従って生きようとする時、東北アジア全体にインマヌエルの約束がかなえられると信じます。
(この内容は2006年12月1日北支区連合祈祷会の一環で行われた「東アジアの平和と宣教のため」の日韓合同祈祷会の時に話したものです。/ろば171号)
戻る