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    初心・消えない火と渇かない水(出エジプト記3:1-6、ヨハネによる福音書4:7-15)
 この2つの聖書の個所についてはご存じの方が多いと思います。旧約聖書の内容はモーセがホレブの山で初めて神と出会い語り合う場面です。新約聖書の内容は名もないサマリアの女性が井戸端で初めてイエスと出会い話し合う場面です。この2つの場面は時代も人物も全く違う内容でありますが、聖書を読みながら感じますのは、この2か所がびっくりするほど非常に似ているということです。
 全く異なる時と環境において起きたこの2つの事件が本当に似ているといえるのでしょうか。もし似ているとしたらそれを通して私たちは何を学び、何を感じることができるのでしょうか。一つは、私たちの信仰の形成における通時的関連性を確認できることです。それは3千年前のモーセがホレブの山で神に出あったその信仰を引き継いでいるといえます。そして、2千年前のサマリア女性が井戸端でイエスに出会ったその信仰を引き継いでいるとも考えられます。もう一つは、私たちの信仰の初心のところを思い出し、現在における自らの信仰を点検、確認することもできると思います。

 それではこの2つの事件のどこがどのように似ているかについて考えてみたいと思います。大分前から類似性について一度確認してみたいと思っていました。ただ、これから話す内容は決して学問的な研究の結果ではないということです。聖書を読み、信仰者として自由に想像したひとつの試みであることを理解して下さい。
 聖書を読んでいるうちに類似点が結構多く浮かんできました。その中で幾つかのことをご紹介したいと思います。
 最初の類似点はこの2つの事件の場面が出会いから始まっているところです。モーセやサマリアの女性が、神に、イエスに初めて出会う場面設定です。信仰というのは神を知ることより、神に向かおうとすることだと思います。
 ヨブ記を読みますと、登場人物が少なく、ヨブとヨブの3人の友人との会話が殆どです。その会話の内容から私たちが感じ取れますのは、ヨブの3人の友人はある意味で神学者の立場として考えられ、ヨブは信仰者の立場として考えられるところがあります。と言いますのは、ヨブの友人3人はヨブに対して一所懸命に神について説明をしようとします。神は愛と正義に満ちた方で全く間違いがない方だと説明します。しかし、ヨブは違います。ヨブはそのような神に対する説明より直接神の声を聞き、神にお目にかかりたいと願うのです。ここに神学と信仰の違いがあると思います。モーセとサマリアの女性、この2人において共通に見える点は、その前後関係から見ますと、2人の心の中にはものすごく神に向かおうとするところがあったように見えます。
 もう一つの類似点は、2人が神と出会った場所のことです。その場所とは1人は山で1人は井戸端ですが、いったいそこにどんな類似性があると言えるのか。少し飛躍するかも知れませんが、そこは2人の生活と密接な関係がある現場だったということです。モーセは羊の群れを飼っていた荒れ野で、サマリアの女性は毎日水を汲みに行く井戸端で神と出会います。と言いますのは、信仰深い人は巡礼に出かけます。神に出会うためです。ヒンズー教やイスラム教、仏教やキリスト教も同じです。しかし、ここはどうも信仰の形態が違う話です。2人は神に出会おうと出かけたりはしていません。むしろその逆でした。彼らの生活の現場に神はご自身を現しました。
 このことはイエスとの対話の部分、20節、21節の部分と少し関連があると思います。
わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。イエスは言われた。婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
 つまり、神はエルサレム神殿や教会のような固定場所に存在するのではなく、どこにも居られる、どこにも出向かれるという、遠い巡礼地ではなく井戸端、私たちが生きている現場におられるということです。私たちが生きているどこにでも神がおられるということではないでしょうか。ホレブの山でのその燃えているが燃え尽きない柴の木があった場所、そして、イエスが飲まれた水を汲んだその井戸があった場所にその後記念館が建てられ、皆の巡礼の地になったということはどこにも書いてありません。
 三つ目の類似点のことですが、2人はどんな人物であったのかを前後関係から考えますと、2人とも大変不都合な立場に立っていた人であったことが分かります。モーセはエジプトの中でも劣悪な立場にいたヘブライ民族の1人で、エジプト人を殺し、逃亡生活中の人でした。彼女の場合も同様にサマリアというユダヤ人共同体の中で差別される側であるサマリアの人の中でも町の人々から敬遠される立場にいた人でした。しかし、そのことについて、聖書にはどこにも倫理的な注意書きが書かれていません。もしかしますと、2人の立場が必然的に神と出会わせた可能性も無視できないことだと思います。
 そして四つ目の類似点は、この出会いによる影響が当事者のみに限るものではないことです。他の人々へ繋がっていくということです。モーセの場合はエジプトで苦難を受けている同族のための召命記事として展開されています。そして、サマリア女性の場合はどうでしょう。モーセの様に偉くはありませんが、彼女も自分だけの救いに留めているわけではありません。町の中へ人々を呼びに走って戻ります。人々に、今、イエスに出会ったことを伝えます。28節、29節、30節のところです。
女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
 聖書には書いてありませんが、想像してみてください。彼女のその後この世を去るまで一生、どう生きたかを。たぶん人々に、イエスに出会ったこの証言を一生続けていたと思います。
 最後ですが、これは最も重要な類似点と考えられますが、「燃えているのに燃えつきない柴の木」と「決して渇かない生きた水」のことですが、この二つが非常に似ていると思うわけです。水と火という物理的な違いだけのぞけば内容的にも類似性が非常に高いといえるでしょう。
 これについてもう少し詳しく見るため、関連個所の幾つかをのぞいてみたいと思います。
 先ず、出エジプト記3章11節、モーセが神に「わたしは何者でしょう。」と尋ねた部分です。この部分と類比するサマリア女性の関連個所は、ヨハネによる福音書四章16節以下の部分です。イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。・・・」ここは文字通りでは分かり難いと思いますが、内容的には「私は何者でしょう。」に当たると思います。
 もう一か所類似する部分を見たいと思います。出エジプト記3章14節です。神がモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」とご自身を紹介する内容です。驚くべきことですがイエスとサマリア女性との会話の中にも類比個所があります。ヨハネによる福音書4章26節です。イエスは言われた。「わたしである(エゴ・エイミ)、あなたと話をしている。」
 ギリシア語の「わたしである」は、「エゴ・エイミ」でした。これは出エジプト記3章14節の「わたしはある」のヘブライ語「エフィ」と同意語です。
 結論を申しますと、モーセが神に、サマリアの女性がイエスに出会う場面は、彼らの初心のところが非常に似ているかと思います。信仰の大先輩の2人の出会いの経験の中から、私たちの信仰における初心の時を思い出し、鑑みることができればと思いました。その時、私たちは何を感じ、何を問われ、心がどのように動いたのか時々振り返ってみることも大切だと思います。
 そして、2人における燃え尽きない柴の木のことや渇かない生きた水のことは、彼らの中で決して忘れないものとして残り、どのような時にも彼らを生かせる生命として燃え上がり、湧き出ていたと思います。神は、出エジプト記3章12節でモーセに約束します。「わたしは必ずあなたと共にいる。」これはモーセにおいては決して消えない火として、サマリアの女性においては決して渇かない水として神が共におられるということでしょう。ヨハネによる福音書4章14節でイエスは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この2つの内容は私たちに信仰について教えてくれるとても大切なメッセージだと思います。(2008年1月6日証詞より/ろば175号)
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