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    日々新たに・陶冶(コリントの信徒への手紙U4:16-5:10)
 先ず、今日は蚕室禧年教会が新しい場所で礼拝を始めるとても大切な日に皆さんと共に礼拝をささげることができ、大変嬉しく思います。
 今日から百人町教会も新しい場所で礼拝を始めます。また今日は百人町教会が創立39年目に入る最初の主日です。両教会が同じ日に新しい場所で礼拝を始めるというのは何か特別な意味合いがあるのではないかと思います。陸上競技の選手が同じスタートラインに立つというのは競争を意味します。しかし、私たちに意味するのは、2人3脚の歩みだと思います。両教会がこの新しい気持ちで、再出発をする意味深い日だと思います。
 実は百人町教会は以前より狭く、相変わらず間借りの場所に移りました。しかし、このことは百人町教会の誰にも問題になっておりません。どんなところでも共に礼拝する場所が与えられたことについて感謝しております。たぶんこの部分は蚕室禧年教会との表面的な違いでしょう。どのような状況でも、互いの違いを認め合い、学び合うことが2人3脚の歩みをより楽しく、豊かな内容にすることと思います。
 新しい出発の日を覚え、聖書を選びました。3つのことについて申し上げたいと思います。1つは、日々新しくなることについての話です。そして、その具体的な内容として命が死を飲み込むことについての話です。最後に陶冶という言葉の意味を説明することで話をまとめたいと思っております。
 先ず、日々新しくなることについてです。
 今日、私たちはこの新しい場所で、今朝の聖句から申しますと新しい幕屋になりますが、初めての礼拝を神様にささげているのです。皆さんはこの新しい幕屋にどんな思いを託したいのでしょうか。夢があると思います。この場所が人でいっぱいになること、あるいはこの地域社会の住民と密接な関係を持つ場所になることなど。しかし、物事とは思惑通りにすんなりと進まないのが普通です。パウロは非常に困った立場から今日の手紙を書き出しています。コリント教会はパウロ自身が思うようにはうまくいかなかったのです。
 パウロは4章16節に「だからわたしたちは落胆しません。」と書いております。この言葉はどうみてもパウロの感情が入っている表現です。落胆はしませんが、落胆するほどの状況に置かれているのを教えています。多分、教会の外からの迫害や教会内部の分裂、例えば教会の仲間の間の、あるいは指導者であるパウロ自身と信徒との間の不信感などが考えられます。
 しかし、パウロがこのような状況の中で、落胆しませんと言ったことは、決して現状のまま我慢しなさい位の話ではないでしょう。我慢ではなく少なくとも現状を乗り越えようとする希望と新たな展開を述べているのです。それはこの落胆という言葉の次に出てくる語句を見るとよく分かります。私たちが好んで使う聖句です。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
 皆さんこの言葉の意味をお分かりでしょうか。非常に大切な言葉であります。キリスト者の生き方、存在様式を表す言葉だと思えば良いと思います。よくキリスト者は聖と俗を区別し、聖なることだけ選び、俗なることを捨てようとする人がいます。ここでの「内なる人」や「外なる人」とはそのような人間の二重性を意味しようとするものではありません。より本質的な価値観というのでしょうか、パウロが18節でいうように、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」のことでしょう。これは見えるもの、即ち俗なるものを捨てようということではなく、見えないもの、即ちより本質的な部分を求め、大切にしようとする表現だと思います。
 そうしますとその本質的なこととは何をいうのでしょうか。このことを話すためには次なるテーマに移らなければなりません。命が死を飲み込む話です。5章4節をご覧ください。
この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

 先ず、死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう構造について考えてみたいと思います。そして、その具体なる命とはなにかということを考えてみたいと思います。
 今日の聖書でいう「内なる人」と「外なる人」、「見えるもの」と「見えないもの」との間にはあるはずの構造的断絶が克服されているというのがこの話のポイントです。これを分かりやすく教えてくれる言葉がこの死が命に飲み込まれたという表現です。「命」と「死」の間にはルビコン川のような象徴的言葉があるように断絶があります。しかし、パウロの表現をよく見て下さい。死が命に飲み込まれましたといいます。これは断絶ではなく転移です。即ち日々新しくなることは、ただ古いことを捨て、死に至らせる断絶を行うことではありません。因みに悔い改めとは新しくなることで、死ぬことではありません。命が死を飲み込むことです。
 本質を見ないようにするのは死にあたります。なぜ、昨今教会が社会の非難の対象になり、宗教が人々から疎遠になるのでしょうか。教会や宗教が求めなければならないその本質から離れているためです。
 キリスト教の存亡が問われているこの時期に、キリスト者として生きるため、教会として存在するため、日々新しくなることは大変重要な課題であります。それはキリスト者が、そして教会がどのような内的なものを持つべきか、より本質的なことは何かを問わなければなりません。いくら宗教が必要でなくなった時代になったといわれても、そのような社会に向けて、そして、人々に向けて応答できるもの、即ち見えるものしか望まないこの社会に、見えないところの魅力を伝えることこそより大事なことと思います。それが私たちのこれからの役目だと思います。
 パウロは6節と8節で「わたしたちはいつも心強いです。」と言っています。その理由は7節に「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」と書いてあります。またコリントの信徒への手紙U12章10節にも、「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」とあります。
 パウロは決して威張っているとか、虚勢を張っているわけではありません。ここで重要なのはパウロが自分の、あるいは教会の弱さをしっかり見つめていることです。その上での弱いときこそ強いという矛盾するような表現ですが、この言葉で日々新しくなることを表しています。この逆説的な表現にも弱さと強さの間の断絶が克服されています。日々新たになること、全ての断絶を克服するのがキリスト者の生の本質です。弱さの中で強さを感じることは、死の中で命を見つけるのと同じことです。私たちが死のままにいるか、死の中で命を見つけるかの問題で、キリスト者だけでなく人誰にもとても大切な生き方のひとつだと思います。
 最後に、陶冶の話をしたいと思います。第23回合同修養会が天安で開かれた時、私は早天祈祷会でコリントの信徒への手紙U2章14節-17節を以って「薫陶」の話をしました。今日はその続きの話をしたいと思います。薫陶とは粘土で作った器が香を持つという意味です。土を捏ねる時に香を焚いて、その香が粘土に染み付くようにすることです。徳を以って人を感化することを意味します。キリスト者は自分という器からこのような香を漂わせる存在だという内容でした。今日は陶冶ということですが、陶冶とは人格の陶冶という時に使います。薫陶になるためには陶冶が必要になります。陶冶とは「人の性質や才能をきたえて育て上げること」だと説明されています。特に陶冶の冶の意味が大切になりますが、冶とはまだ焼かれていない土をこねたり、鉄を溶かしたりすることで、新しく練り直し、美しく造り直すことを意味します。取り壊して捨てるのではなく、本質の部分、土器は土がその本質、鉄器だったら鉄がその本質、それを捨てる、否定するのではなく、もう一度造り直すことが陶冶です。これはまさに日々新しくなることを意味します。
 両教会は30年近くの歩みを日韓という間の大きな断絶を断絶と思わないでやってまいりました。その間、互いに学び合い、信頼し合い、それによって育み合って来た合同修養会も25回目を迎えました。これこそ見えないものを大切にしてきた歴史であり、命が死を飲み込む歩みだったと思います。どうか今後も陶冶を重ね、キリスト者としての素晴らしい香を漂わせる器、薫陶になられますようにお祈り申し上げます。
(2008年11月2日合同修養会の証詞より/ろば178号)
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