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    2デナリオンの責任(ルカによる福音書10:29-37)
 本文はイエスのたとえ話の中でもっとも有名な「善いサマリア人」というところです。内容は29節で律法の専門家がイエスに、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問いかけたことについて、イエスが応えるため持ちだしたたとえ話です。イエスがたとえ話で話すのは神の国を教えるためだと聖書は教えています。
 前回、マタイによる福音書20章の「ぶどう園の労働者」のたとえ話で、雇用と賃金のことについて話をしました。「1デナリオンの約束」という題で話したなかで、神の国は1デナリオンが約束(保障)される社会であり、1デナリオンとは労働者の1日の最低賃金で、人間の基本的な生存権を守るための金額だといいました。
 今回はもう少し金額をアップして2デナリオンの話をしたいと思います。理由は、イエスが人はパンだけで生きるものではない(ルカ4:4)、と言われたように、人の社会生活や生存のためには御言葉にあたる医療や教育、更に介護も必要だからです。そのためには1デナリオンのみでは厳しく、2デナリオンは欲しいのです。同時に「責任」について考えてみます。
 この日エルサレムからエリコへ行くある地点で一人の人が強盗に出会い、着ている服をはぎ取られ、殴りつけられ、半殺し状態の大けがを負っていました。犯人は逃げ去りました。
 先ず、皆さんに質問をしたいと思います。日本で裁判員制度が始まりました。このたとえ話に出ている強盗殺人容疑事件は民事事件でしょうか、刑事事件でしょうか。これは刑事事件です。今の時代でしたら、犯人が捕まったら、刑事裁判をうけるようになります。この犯罪は社会に不安感を与える反社会的・反道義的な行為であるためです。皆さんが裁判員として担当する事件になる可能性もあります。
 ここでもう一つの質問をしたいと思います。もし、小泉純一郎元首相にこの聖書の内容を見せ、この事件について尋ねますとどのように応えると思いますか。「それは自己責任だよ!」と応えるのではないかと思います。追剥が出てくる危ない場所を勝手に歩いたんだから、自己責任を取らなければならないと。イラクで日本人が人質になった時のことを覚えているでしょう。国際社会のなかでテロと戦うと公約した人の矛盾する考え方です。もし、このようなことが個人の責任となりましたら、振り込み詐欺事件やひったくり事件なども自己責任の問題であり、警察などの公権力を動員して犯人を見つけ出すことはしなくてもいい筈です。
 小泉政権後、日本の社会に自己責任という言葉がしっかり根をおろしたような気がします。今の大きな問題になっている派遣切りのことも自己責任の問題になります。若い時から数十年間、日本の社会のため働き続けてきた人々が年老いて介護が必要となった時にも自己責任といわれるのです。人が消耗品のように使い捨てられる社会が今の自己責任の社会です。恐ろしい時代になりつつあります。もう隣人という概念もなくなりつつあります。
 このような「自己責任論」は新自由主義経済(グローバリゼーション)の重要概念です。そして、小泉政権がその手先として、もう一つの重要概念である「小さい政府」を言い出し、郵政事業を民営化し、最も公的部門であるべき介護事業までも民間に委託することにしたのです。その代表的な会社だったコムスンは介護報酬不正請求事件を起こしました。その親会社は非正規職の雇用斡旋会社であるグッドウィル・グループで、派遣社員から不正に賃金を横取りした違反で業務停止状態になっています。経済用語の中に「自己責任の原則」という言葉があります。それは株式や債券、あるいは証券などの取引によって損失が発生した場合、投資家自身がその責任を負うという原則です。アメリカのブッシュ政権、日本の小泉以降の政権、そして韓国の李明博政権というのはこの考え方をあらゆる分野に適用としています。政府が持つべき公的部門を小さくするという名目で民営化を進めると、政府の責任も少なくなり、投資の範囲が拡大するため経済が活性化するというのが新自由主義経済における掛け声です。工場や企業は投資家のために合理化をするという名分で、その財産を処分し、正社員をリストラし、その代わりに派遣社員を雇います。労働の価値が蔑まれ、人が消耗品として扱われます。これは正気の沙汰ではありません。ですから世界経済が今のように狂ってしまうのです。
 このような個人責任論がイエスのたとえ話の中にも出てくるのです。本文のなかに出てくる祭司とレビ人とはイエスの時代に公的な立場にいた人です。彼らが半殺し状態でうめき声をあげている人を避けて通ります。どんな時代や社会であってもこれは宗教倫理上、または道義上の問題になります。人が危険な状態にいるのに民族や人種や宗教が違うという理由で避けて通ることはできません。当時の宗教者の自己責任的な救済観から汚れを恐れていたかもしれないという神学者の観点もあるようですが、家畜であっても助けてあげるのが人の道義でしょう。
 このたとえ話を通してイエスは何を教えようとしたのでしょうか。確かにこの話は隣人に関する話です。33節以下にサマリア人の行為が書かれています。サマリア人は確かに偉いことをしたと思います。けが人に応急措置を取り、救急車の代わりに自分の車で休めるところまで運び、それでも心配であったのか一晩介抱してあげました。その人は翌日、2デナリオンを宿屋の主人に渡し、更に看病をお願いするのです。その上、費用が足りなかったら帰りがけに払いますと約束するのです。想像してみますと、けが人とは強盗に服まで剥ぎ取られ、全てを失った状態で、一時的に命を含む貧困の状態に置かれていたのです。このような立場に人が置かれたとします。どうやって助けられるのでしょうか。通りすがりの人かそれを専門に扱う公的機関によることでしょう。このことは善意で解決する問題より、道義による責任の問題として、しかも、自己責任ではなく公的責任として受け止めたいわけです。
 現代においてこの神の国のたとえ話はどうなっていますでしょうか。驚くべきことですが、聖書の当時と比べますと多くのことが公的機関によって保障される時代になっています。イエスが言われました隣人という概念は、今は実行するべき公的な行為です。その中で隣人とは選択する存在ではありません。日本も国民皆医療保険や教育制度など幅広い分野で政府が公的責任を担っています。北欧では公的責任システムを更に広げ雇用、生活分野にまでも導入しています。このような時に、自己責任や小ささい政府を主張するのは誰のためでしょうか。
 このたとえ話の中で最も気になりますのは、36節以下に「さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」という教えです。これは責任に関する内容です。聖書の翻訳者の判断というのは時代に、あるいはイデオロギーに影響を受けます。更に彼らの考え方は読者に大きな影響を与えます。例えば、このたとえ話の見出しは「良いサマリア人」です。この見出しでキリスト者である私たちは甚大な影響を受けて来ました。特に「良い」という考え方です。本文を見る限りではイエスの言葉にこの良いという価値を表す概念は使われていません。善し悪しの考え方はキリスト教のなかで大きな位置を占めていました。善なること、良いことをしなければならないという考え方です。これは義務論であり、目的論にあたります。良(善)いことをすれば良い結果が保障される、救われる、天国へ行けるということです。このままですと救いも自己責任となります。そしてこのような考え方は私たちの信仰や生き方を強く支配してきました。しかし、このような意味の義務や目的に連なる行為は面倒と思えば人に譲ることも、避けることもできます。問題は責任です。隣人という間柄は公的責任関係です。本文はその責任を義務や目的を見分ける前のアプリオリな行為と教えています。危険にさらされている人の命を救うのにイデオロギーや信仰は問われません。

 社会的不安が広がりつつある今、一部の政治家が自己責任や小さい政府を主張し、それを実行しようとしています。しかし、公的責任を補うためには今より更に大きい政府を作るべきだと思います。無論、過剰な軍備のような不必要なところは無くし、その上税率をあげ、特に持っている人の税率を高くし、それを以って安定した職をより多くの人に提供し、病気や老後の介護までの責任を取り、社会人として共に生きるに必要な教育を施すべきだと思います。人の基本的な生存権を保障する社会にしてほしいのです。そのためには2デナリオンの責任をわれわれ市民が持つべきだと考えております。(2009年5月24日証詞より/ろば180号)
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