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     応答(マルコによる福音書3:1-6)
 今日の聖書の内容はイエスが活動を始めた割りと早い時期のある安息日に、ガリラヤの村の会堂で起きた出来事です。この日の会堂にはいつも集まる人々に混じって見覚えがない人が座っていました。イエスという人物で会堂の大概の人々は強い警戒心を持っていました。
 その日、この集会の新しい参加者であるイエスは、会堂にいた片手の萎えた人を中央に立たせました。そして、無礼にもその場にいる律法を最も大切にしている村の指導者級の皆に尋ねて聞くのです。
 安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。
 イエスのこの問いかけに対し、会堂に集まっていた人は誰も黙っていました。イエスは何にも答えない彼らを見回し、怒ると同時にかたくなな彼らに悲しみを覚えました。そして、彼らの前で片手の萎えた人を癒します。
 この話は大変短いものです。しかし、この話には、神様のこの世での働きの普遍的内容が隠れているような、又、この時点から十字架に付けられる時までのイエスのすべての行為のキーワードが縮約されているような気がします。そして、そこには現在のキリスト教やキリスト者が持つべき最も大切な教えが含まれているのではないかと思います。
 今日の聖書を通して私は一体何を感じたでしょうか。怖れを覚えながら申しますと、これだけの内容をまとめる言葉として選びましたのは、題として付けました「応答」という言葉でした。たった一言にすぎないこの言葉ですが、とても大切で、責任を重く感じさせる、従って到底この小一時間で終わらせるほどの言葉だとは思いません。しかし、百人町教会の皆さんにとってこの「応答」という言葉は大変親しいものと考えております。1973年8月から百人町教会の毎週の礼拝のなかで欠かさず使われて来た用語であり、礼拝における極めて大切な中身でもありました。
 今日は聖書の大切な内容としての応答と、百人町教会の礼拝の貴重な中身としての応答の意味を、共に覚えながらお話を進めたいと思います。
 先ず、この言葉の概念について少し考えてみたいと思います。
 「応答」を別の表し方をしますと「答え」とも言えると思います。これを英語に直しますと「Answer」になるのではないかと思います。しかし、百人町教会は礼拝の中でその日の証詞に関しての「応答」(感想、質疑など)を行なっておりますが、この「応答」は週報の英訳文として「Response」と記されています。これは古くからカトリック教会の礼拝のなかに取り入れられ、神父さんと信徒が交互に唱える「応唱」(Respond)とは異なる内容です。これより、少し無理があるかもしれませんが、私自身はこの「応答」に「Response」の英語の関連語の一つである、「Responsibility」との深い関わりを覚えております。この言葉の和訳には「責任」、「責務」、「信頼性」などがあります。即ち、「応答」にはこれらの意味が並行していると思っているのです。
 私たちが行っている礼拝は古くから神の恩寵に対する人間の応答行為として考えて来ました。従って、礼拝の中身である証詞(説教)も応答的な性格が強いと思います。聖書、即ち御言葉に対するものだけではなく、その時の世界や社会、あるいは人々に起きている現象や事柄を洞察し、同時に神様の御旨を認識し、それに応答するものと考えられます。しかし、多くの人にとって説教に対するイメージは、このような相互性より、一方的で、しかも不変性を標榜するため逆らえない、宗教倫理や教条的な内容として受け止められているのが現実でしょう。
 従って、礼拝における証詞の応答性には強い責任認識が伴うものです。それは神のみではなく、その時の世界や人々に強い関心を持つことでしょう。もし、無関心でしたら応答はできないと思います。言い換えますと証詞もできなくなることでしょう。聖書は私たちに、私たちが信じている神様がこの世に対して、人々に対して大変強い関心の持ち主であることを教えています。
 聖書における応答的な信仰の持ち主とは預言者のような人物です。無論、メシアとして来られたイエスもその一人でした。イエスが活動した時代のイスラエルの地域は、政治的にはローマが支配し、宗教的には律法が支配していました。イエスはその世界、あるいは社会とその中で生きている人々に、特に二重に苦しめられている人々に、その時が意味することが何かを、3年にも満たない短い間に応えようとしていました。福音書とはこのようなことを中身として持つ文章ですが、その内容のすべてはローマが支配していた時期にまとめられたものですので、ローマの支配に対する政治的な内容は極端に足りません。その代わりにユダヤ教の宗教的支配階級に応える形の内容であふれています。この事実を鵜呑みにしますと、聖書には宗教的な内容しかないので、社会との関連はないと思う宗教者も多いでしょう。しかし、その宗教的な内容を当時の抑圧的な社会状況から来るメタファーとして考えますと、ローマの支配に対する政治的応答が、宗教的抑圧に応える内容の裏面に同じかそれ以上の量で隠れていると考えるのは無理でしょうか。
 それでは、今日の聖書の内容がこの「応答」とどのような関係であるのか考えてみたいと思います。今日の聖書の言葉にはどこにも「応答」という言葉は書いてありません。しかし、少し目を大きくして読んでみますと、この内容すべてが応答の形を取っていることが見えてくるはずです。
 細かく考えますと、先ず、この安息日に会堂へ集まっている人々の多くは律法を重んじている人々と思いますが、彼らに向けてのイエスの問いがあります。それに対して会堂の皆は黙っていますが、この沈黙は彼らにとって一種の応えです。そして、片手の萎えた人をイエスは癒しますが、この行為も片手の萎えた人の治癒という切なる願いに対するイエスの応えでありました。しかし、この行為には安息日の規約違反という非常に強いリスクが内包されていました。結果、イエスのこの行為に対して反感を持っていた人々によるこの日の最終的な応答とは、イエスをどのように殺そうかとの相談でした。従って、イエスの応答というのは命がけのものでした。無論、安息日に人を殺そうと相談するのは如何なるものかを考えざるを得ません。しかし、これこそが応答の難しさを表す一面でもあります。自分を守ろうとする強い意志が、応えを歪ませるのです。
 このようにこの安息日に行われた小さな出来事とそのやり取りの中での応答について考えてみましたが、このような読み方を福音書全体に当てはめますと同じような事が見えるはずです。即ち、イエスはこの世に対する神の応答であることです。福音書だけではありません。聖書のすべての内容がこの世に対する神の応答であることがお分かりになると思います。
 最後に応答がどのような課題に関心を持つかは大変重要な事柄です。例えば、律法主義者は神を第一として標榜しますが人より律法でした。しかし、イエスは片手の萎えた人にどう応えるかが最も重要な課題でした。同じ事柄であってもどの課題を重んずるかは大変難しいことですが、ここに応答の本質が含まれていると思います。要するに破壊ではなく、回復、罪を定めるのではなく、贖うことです。病の人は癒され、権利を奪われた人はそれが取り戻され、貧しき者には日用の糧が与えられることです。
 面白いと思いましたのは5節のところです。
 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
 ここにイエスが怒ったと書いてあります。さらに彼らのかたくなな心を悲しんだと書いてあります。要するにこれはかたくなな心の持ち主に対するイエスの応答です。批判する立場の相手に対しても怒りと、悲しみという感情を持ちました。これはイエスのパトスです。そこには憤りがあり、悲しみと苦しみがあると同時に、回復への切なる希求と重い責任が伴います。
 派遣切りや格差の問題を始め多くの課題を抱えているなかで、都議会の選挙と総選挙が間もなく行われる予定です。私たちが選ぶ政治家や政党とは国民に対しどのような応答能力を持つものか良く判断しなければなりません。応答能力がない、責任能力がない政党は選ばれない方が良いでしょう。
 神のこの世に対する回復への意志に応えようとするのが信仰や宣教の課題であるとしますと、当然それに携わる者としての私たちは、今度の選挙にも正しく応答する責任があると思います。(2009年7月5日証詞より/ろば181号)
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