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    現在・与えられた機会(ルカによる福音書13:1-9)
 今年に入って、事柄の時間と事件性について関連を持つお話しをしてまいりました。これは意図的なものではありませんでした。それが不思議なところですが、今回も似たような内容です。こうやって何度もやっているうちに一つの形ができるのではないかと思います。これで最後になるかどうかは分かりませんが、今回は「現在」という限られた時の意味について考えてみたいと思います。聖書はこの現在という時をどう教えているのかについてです。
 現在とは私たちに何を意味するのかと考えた場合、前回と同じように、二つの面で考えられると思います。一つは過程・プロセスとして、もう一つは出来事、事件として考えられると思います。
 先ず、現在を過程として考えた場合、来るべき未来とはどんなものでしょうか。来世といった場合は既に出来上がった未来ですが、もし、それを信じているならば現在とは、昨日から今日を通り過ぎ明日へと、過去から未来への通過地点に過ぎません。この場合の現在とは我慢の時、通り過ぎさえすればよい時のように考えられます。
 しかし、現在を事件として捉えた場合は、現在という時間性と空間性がより明確に現れます。同時に、未来との関係もより具体的になります。時間以外にも場所や環境や原因などの意味合いを持つことが多くなるのではないかと思います。そして、その未来とは現在によって変えられる具体的な未来になるのではないかと思います。
 聖書が教える現在とはこのような事件性の中で理解するべきものだと思います。例えば、福音書そのものは西暦30年頃のパレスチナで生きていたイエスという男の短かかった生と死の事件を元に書かれた事件ファイルだと考えられます。
 今日はこれらの考え方を前提にしながら現在という概念が持つ聖書的意味について少し詳しく考えてみたいと思います。
 聖書の本文の内容をみてみましょう。
 今日の聖書は1節から5節までと、6節から9節までの二つの部分に分けられていますが、後半部は前半部の内容を説明するたとえ話になっています。
 先ず、前半部からみてみたいと思います。二つの惨事、悲惨な事件から話が始まります。一つは、多分エルサレムの神殿だと思いますが、当時パレスチナを支配していたローマ帝国の総督ピラトがガリラヤ人の血をいけにえに混ぜたという事件です。もう一つの事件は4節以下に紹介されています。エルサレムの城郭にあるシロアムの塔が崩れ落ち、18人が死んだ事件です。
 この二つの事件についてのテーマは、イエスの答えから考えてみますと、当時の人々の事件に対する受け止め方は、事件を起こした人の責任の是非や事故の具体的な原因よりも、宗教的な意味合いについて、即ち事件に巻き込まれた人自らがその原因を作り、持っているという判断が多かったようです。要するにこれらの災難で自分ではなく他人が死んだのは、その人の罪が自分より深い為であるという考え方が一般的だったようです。それに対して、イエスは因果関係を問いません。その代わりに、皆が神を忘れた結果であるため、悔い改めなさいという話でした。
 このような答えは非常に抽象的で曖昧な答えのように見えますが、前回の聖研で読みましたヨハネによる福音書9章の部分と類似性が強い話です。生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからか、本人か両親かという話の中でイエスは、誰の罪でもなく神の栄光の為であるという答えをしているのです。
 さて、このイエスの答えから読み取れるのは、事件の犠牲者を決して客体化、対象化していないことです。つまり、第三者の立場から、犠牲者を自らの罪によって罰せられた存在として眺めているのではなく、むしろその事件の背後に自分たち皆の責任があるという、従って自分達が悔い改め、自分たちのこれまでの生き方や考え方を変えなければならないというのです。
 ここで私たちは一つ区別しなければなりません。悔い改めについては同じ時代を生きていた洗礼者ヨハネも強調していました。はたしてこの2人の悔い改めの内容は同じものと考えられるのでしょうか。

 ヨハネは荒野で、服装も食べ物も粗末なもので、非常に禁欲的に生きていました。彼は間もなく到来すると終末を強調していました。つまり、ヨハネは現在よりも未来のことが中心です。
 イエスの考え方はヨハネとは非常に違っていました。先ず、ルカによる福音書7章18節以下を見ますと、ヨハネが弟子たちをイエスに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねます。イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と答えます。これだけ見てもわかりますように、目が見えない人が見え、足の不自由な人が歩くなどの話は、ヨハネのようにただ今の時をなんとかしのいで難を避けるのを優先する考えではありません。
 最初に申しましたように現在というのを過程としての現在と、出来事としての現在を分けてみた場合、ヨハネは過程的な現在で、イエスは奇跡一つ一つが既に事件性を持っていますし、同時に未来との関連からはっきり見えてくることがあります。つまり、ヨハネの洗礼という宗教的清め行為より、イエスの病の人を癒し、障害を持つ人が立ち直り、貧しい人に良き知らせを与えるなどの行為の方が、より具体的な未来を迎えるのではないかと思うわけです。要するに、イエスにおける悔い改めが必要な現在とは、未来の為の現在の改善であることです。即ち、現在とは未来をただ待つだけではなく、未来を決定する鍵であるということです。
 次にこの話と関連して後半部のイエスのたとえ話について考えてみたいと思います。
 ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』
 この話は実らないイチジクについて農場主と園丁との間で交わした会話です。農場主はイチジクの木が実る時期になり、3年間も待っていたが実らないので、農場主の合理的な計算で、その時点で切り倒した方がそれ以上の損を被らないで済むという話です。それに対して園丁は待ち続けた3年間を含め、これまで育ってきた歳月を思うともう少し待っていてあげた方が良いのではないかという話です。園丁はもう1年間だけ時をゆるせば肥料の量をさらに増やし、誠を込めて育てあげ、実らせたいと苦言を呈します。話はここで終わり、その後に農場主がどう答えたかについては書いてありません。
 このたとえ話からは幾つかのことが考えられます。一つは、園丁が農場主の言葉に無条件に従わなかったことです。イチジクの木が実らなかったのはイチジクの木の所為だけではなく、自分にも責任があるということです。このことは先ほどのエルサレムでの犠牲者らが自らの罪の故、災難に会ったと考えていた人のように物事を対象化しないで、自己問題化しているということです。それ故農場主の切り倒せという指示を拒み、待ったをかけることができたのです。この行為には自由と勇気が必要だったと思います。それを可能にしたのは園丁の主体性と未来に対する希望であったと思います。同時に相手(ここではイチジクの木)に対する堅い信頼が基となったと思います。旧約聖書の預言者たちも神に対して時々待ったをかけました。これらの待ったをかけること、即ち事件を通してこそ、未来に開かれた可能性としての現在があり得るのです。ただ単に過程を生きる人には敷いてあるレール、ドグマの中で生きるのが楽でしょう。そこには他人の罪を対象化することしかないでしょう。事件には巻き込まれたくないのです。そのような人は他人を信頼することができません。全ての救いは自己責任によるものです。イエスもいりません。
 たとえ話は神の国の話だと言われます。神の国は未来的であります。ただ、それは現在との深い関係性の中にあります。現在は未来の為のただの通過地点ではありません。現在を改善する出来事の中での開かれた未来であります。従って、現在とは与えられた機会だと思います。そこでの現在は出来事(事件)として存在するのです。
(2010年2月14日証詞より/ろば183号)
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