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    聖書というタペストリー(コリントの信徒への手紙T11:17-22)
 早速、本文の話から始めたいと思います。本文の見出しには「主の晩餐についての指示」とつけてあります。その内容を見ますと、これが本当にパウロの知っていた、コリント教会の主の晩餐における状況であったのかと思うほど、信じ難い話が書かれています。どのような事情があったのか仲間の争いという表現が19節に出て来て、続いての21節には、「食事の時に各自が勝手に自分の分を食べてしまい」という表現があり、続いて「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だ」と言っているのです。要するに、コリントの教会の集会において、一方では貧しい人が飢えていて、もう一方では豊かなものはお酒で酔っ払っているという現象が起きていたというのです。
 パウロはこれに続く形で、まるでこの事が原因であったかのように、23節以下では「主の晩餐の制定」、27節以下では「主の晩餐にあずかるには」と書かれているような内容の手紙を書いているのです。このことは集会における主の晩餐において、二度と右のような差別や排除が行われないように注意を呼び掛けている内容であったことは容易にお分かりになると思います。
 この証詞の題を「聖書というタペストリー」とつけました。古くから西洋では聖書をテーマにしたタペストリーが多く造られてきました。教会の壁を聖書の内容を描いたタペストリーで飾っているのをご覧になった方は多いでしょう。それで思ったことですが、もしもコリントの教会のこれらの聖書の内容を、ある巨匠が絵画やタペストリーとして描いて教会の壁に飾ったと想像してみますと、とても醜い作品になると思いますが、大変教訓的な作品になるのではないかとも思います。さすがに福音書には美しく描かれる内容が数え切れないほど沢山あります。イエスと共にする食事会だけでも何度出てくるでしょうか。野原で大勢の群衆との食事会、重い皮膚病を患う人の家での食事会、結婚式での食事会等々、その場面は想像するだけでも心が和む風景だと思われます。
 今日は、コリントの教会での食事の話から始めましたのでこの食事会の内容をもってタペストリーを描いてみたいと思います。タペストリーのことですが、この頃は印刷や染色したものもタペストリーというらしいですが、今日はオリジナルタペストリーをアナロジーとして捉え、聖書の話を進めたいと思います。それにはいくつかの関連性が考えられるためです。
 先ず、聖書における主の晩餐を含めての食事会のことを考えて見たいと思います。聖書に描かれている食事会の意味合いには、その殆どの場合に神の前で民が、或いは信仰者が与えられた恵を共有しながら共に生きることを約束する契約の意味が含まれています。これは聖書だけの話ではないでしょう。イスラエルの民がエジプトから脱出した時にシナイ山の麓で食事会を開きます。契約の食事会です。パウロも先ほど申しました主の晩餐の制定のところの11章25節に「新しい契約」だと表しています。ところがヤクザの世界でも、政治家の世界などでもこれと似ている食事会があります。要するにこの場合での食事会は仲間同士でその関係を固めるために行なう儀礼のような行為です。しかし、彼らの食事会はコリントの教会のように利害関係を基に、差別や排除を前提としているものであると思います。
 それではこれから皆さんを福音書に描かれている神の国の食事会にご招待したいと思います。どんな違いがあるのでしょうか。
 ルカによる福音書14章15節に、食事を共にしていた客の一人はこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。という表現があります。
 神の国の食事会、想像するだけでもわくわくしますが、そこに参加した皆が世界で一番幸せな顔をして皆の顔は色白で綺麗な服を着て、会場には素敵な生演奏の音楽が流れ、笑みが満面に浮かんでいる顔で食事をとっているのではないかと思います。この神の国の食事会をタペストリーに皆さんと一緒に描いてみたいと思います。ものすごく綺麗な作品となると思います。それでは下絵を描くためにこの聖書の続きを読みたいと思います。期待して下さい。
 14章15節に連なる話は7節から24節まで続く話になっています。特に13節と21節はほぼ同じ言葉で書かれていて、神の国の食事会の出席者が描かれています。13節です。
宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。え―!何―んだこれ!こんなものがどうして神の国の食事会かよ!
 これがどうして神の国の食事会といえるのでしょうか。何かが間違っているのではないでしょうか。こんなものをタペストリーに描いたら神の国の食事会に見えるのでしょうか。障碍者、病人、社会的にありとあらゆる差別を受けている人々が集まっての食事会はあのコリントの教会の食事会とどう違うのでしょうか。
 この理解困難な謎を解くために、今度は教訓やたとえ話ではない、実際の話を福音書からヒントを得て提示したいと思います。同じくルカによる福音書5章27節以下の話しです。これも食事会の話です。レビという徴税人がイエスの弟子に選ばれました。レビは大喜びで大勢の人を家に招いて盛大な宴会を催しました。その時にその場面を最初から見つめていたファリサイ派の人々やその派の律法学者たちがこう言いました。
なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。(30節)
 数千人と思われるあのガリラヤの野原での食事会の仲間たちはどんな人々だったのでしょうか。先ほど申しましたように、皆、白い天使のような服を着、とても綺麗で素朴な顔をしている人の集まりだったのでしょうか。違います。そこはエルサレムではありません。殆どの人が貧しい人、体の不自由な人や病人、女性、子ども、中には重い皮膚病(らい病)を患う人や悪霊に取りつかれている人もいたでしょう。しかし、多分、皆さんはこう思うでしょう。否、皆さんではなく自分がこう思っていました。すべての人はもうイエスに癒され治っていて皆綺麗な状態だったと。
 一体、どうして聖書をこのように読むことが出来るのでしょうか。
 イエスが描こうとした神の国のタペストリーはどんなものだったのでしょうか。
 奇跡というのはどんなことを言うのでしょうか。
 タペストリーの話をしながらこの疑問を解いていきたいと思います。

 先ず、タペストリーは織物であることです。織物とは縦糸と横糸で織られます。焦点は縦糸だけでは、或いは横糸だけでは物にならないことです。私たちは聖書を読む時に縦割りのみで読む場合が多くあるのではないかと思います。例えば、癒しの話などはイエスと癒される人との関係のみを考える場合が多くあります。聖書の殆どの内容をこのようにイエスと誰、神と誰という形で読むのです。しかも、聖書の読者は人より神の立場か、イエスの立場で読む場合が多いのではありませんか。いつも正しい事、綺麗な事を価値基準にすることです。しかし、タペストリーにたとえますと縦のみではなく、横の方向にもしっかり読まなければなりません。
 実は、タペストリーの縦糸は裏で隠れて、横糸をしっかりと支えているのみです。タペストリーの色の表現は横糸のみです。その横糸の色は、先ほどの14章13節と21節の神の国の食事会への招待客のようにいろんな色を持つ人々とたとえられます。彼らが違う色をそのまま認めあい、受け入れあって表している素敵な色です。縦糸としてたとえられる神様や秩序のようなものは表ではなく、裏に隠れてこれらの横の色糸を支えているのです。無論招待された人のほかにも豊かな人も律法学者もがそこにはいても排除されません。奇跡とはこのようなことではないでしょうか。神の国の食事会の招待客は皆どこかに足りない部分を持っていて、一人では立つことが出来ない存在、誰かの支えがないと生きられない人が殆どです。その人たちが本当に癒されるのが奇跡だと思いますが、その上、これまで縦割りの社会における数々の差別の中で罪人と言われ、自分たちの間でも差別しながら生きてきた人々が、ある日、ある出会いによって、互いに認め、受け入れ、支えあう人になったとしますと、それこそが奇跡ではないかと思います。あのガリラヤの野原での食事会はまさに彼らがイエスという縦糸のお方を基とし、このように横に繋がった瞬間の喜びの食事会だったでしょう。そして、彼らはそれまでの宿命論から抜け出し、支え合うなかで自分という色をしっかりと出しあい世界で最も綺麗なタペストリーを描いているのです。(2010年6月6日証詞より/ろば184号)
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