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    百人町教会の原点(ヘブライ人への手紙3:7-15)
 百人町教会の40周年となる日まであと1ヶ月弱残っています。40周年を迎えるために、この1年間いろいろな作業をやってまいりました。小冊子を編集し、それを韓国で印刷しており、ホーム・ページも新しく作りました。そして今回の行事にはお客様は出来るだけ呼ばないことにしております。ただ祝うのでなく、これまでの百人町教会の関係者が集まり、この節目に語り合いたいということです。今日は、このような時期に百人町教会の原点について考えてみたいと思います。
 皆さんは百人町教会の原点、特に歴史的原点とは一体どの辺だと思っておられるでしょうか。勿論、この問いには皆さん各々異なる答えをお持ちであるかもしれません。たとえば、百人町教会の原点は美竹教会や浅野順一先生だと。或いは、矯風会の小さい部屋で大久保祈祷礼拝が始まった時だと。または、期間を少し長くして最初の五年間の無牧の時代だとおっしゃる方もいらっしゃると思います。いろいろと異なる答えが出て来てもいいと思います。
 しかし、今日は私自身がどう思っているかをお話しながら、証詞をしたいと思います。私自身は、百人町教会の原点はまだ創りの段階であり、原点の時点はまだ終わっていないと。即ち、歴史的原点として百人町教会がこれまで歩んできました40年間を考えてみたいと思っております。40年というタームは人が持ちうる時間としては確かに長いです。仲間が一人、またひとりと欠けていき、私たちもこれから後どれほど生きるかも分からないのに、原点を40年間と考えるのは残酷な話かもしれません。しかし、教会はこれで終わらない。後何十年、何百年続くかもしれない。そういった場合、40年とは決して長いことではないかもしれません。否、後1年後に世を去るとしても40年かけて創って来た原点は私たちの最後の一人が世を去るまで記憶に残り、何らかの形で各人の信仰と教会生活に影響を残すことは確かなことでしょう。
 従いまして、この度の40周年記念会とは、ただ、この40年間を解散しないで持ちこたえたことを祝おうとすることより、新たな出発の地点に立つということだと思っております。現在の位置とはモーセがピスガ山のなかで姿を消し、イスラエルの民がヨルダンを越えようとする瞬間にもたとえられると思います。
 そのためこの1年間準備してきました。特に小冊子は、ただの記念本を出版するということではなく、数人で1ケ月ほどあれば作れたかもしれませんが、毎回10人ほどがお弁当を持参し、朝から夕方までの作業をしてきました。そしてこの40年間の歩みについて語り合い、議論し合うとても大切な時を持ちました。これも一つの原点作りの作業で、新たな一歩を歩み出すために必要な時であったような気がします。
 このような考え方は私個人の考えというより、聖書的考え方だと思っております。聖書は一体どのように語っているのでしょうか。今日の聖書はヘブライ人への手紙の一部分です。その内容とは殆どがディアスポラのユダヤ人(ヘブライ人)キリスト者に向けての説教です。前半部は今日の二番目の讃美歌(21)144番の聖書的背景である、詩編95編7節から11節までの内容です。この部分はヘブライ人の原点となる部分であります。ヘブライ人の原点とは無論、ヤハウェ神でありますし、歴史的な意味での大筋ではアブラハムや四百年も過ごしたエジプトでの生活とも考えられますが、やはりヘブライ人にとっては出エジプトした後の40年間の荒れ野の期間であったというのが聖書の教えの中心です。この説教者はこのことを先ず述べているのです。そして、説教の冒頭を聖霊が語るという形で述べています。しかし、40年でなければならないということではないでしょう。偶々イスラエルの民が出エジプト後40年間荒野をさ迷ったことと私たちが40年を迎えたことが重なるためのことからの話で、50年でも百年でも構わないと思います。要は、その中身にあると思います。40年間一体何をしてきたのかということです。
 この聖書にはいくつかの言葉で表している重要なポイントがあります。
 7節の後半、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら」のところに「今日」という言葉が使われています。又、13節の真ん中のところに括弧付きの「今日」という言葉が使われています。そして15節後半にも使われています。
 ここに出ているこの「今日」とは、昨日、今日、明日という時間の流れのなかでのある時点よりも特別な時間を表しているように考えられます。要するにギリシア語で言う“カイロス”の時間のように考えられます。ギリシア語には時間を表す言葉が二つあると言われています。“カイロス”と“クロノス”です。クロノスとは先ほど申しました機械的な時間、過去から未来へ流れている時間のことを意味します。しかし、カイロスとはある特別な一点のことを意味します。これを「永遠の今」と表現する人もいます。即ち、特別な意味を持つ、或いは決断を要する終末論的な時間を意味します。
 この言葉が私たちに教えているのはこの40年という時点で私たちが過去に生きるのではなく、40年という原点をもって「今日」、「今」を生きるということです。信仰者の時間とはこのようなものだと思います。このような受け止め方によって今は全ての過去とも繋がるし、すべての未来とも繋がります。この意味では過去の40年も「今」に該当すると考えられます。
 ここで私たちは百人町教会の40年間、どんな原点を創って来たのかをもう一度確かめる必要があります。聖書を見ますと、イスラエルの民は荒野の40年間を決して「綺麗で完璧なものだった」とは言っていません。9節と10節です。荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、験し、40年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』
 私たちの原点もこのようなものだと考えられます。二重括弧の中の「彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。」というのです。ここでは恥部も含めての全ての事柄を四〇年間の原点だと言っています。失敗や過ちというものがない原点が良いと思うでしょうが、私は逆にそれらのことがあった方がより豊かな原点になるのではないかと思います。無論失敗や過ちが起きると平常心ではいられないと思います。難題が重なり、嵐が吹いている時のように命の危険さえも感じられる時です。百人町教会の40年の歩みが綺麗で完璧なものであったとは思いもしません。喜びや楽しい時だけでなく、悲しみや悔しい時もありました。誇りだけでなく、深い傷や痛みも持っています。もしも原点を一時に限るものとして考えますと、歴史に伴う示唆性などは期待できなくなります。従いまして、善し悪しの全ての内容を抱える40年という期間を原点と考えたいのです。その上、その原点とどう向き合うのかによって原点の内容は質的に変化し、豊かなものとして受け止められるようになると思います。それは「今」という時点で行なうべきであるというのがこのヘブライ人への説教の重要なポイントです。
 要は、時の流れと共に辛かった過去のことを忘れ、誤った過去を消そうという考えは信仰者の姿勢ではないということです。今回の小冊子には私たちの誇りだけではなく、恥部も出来るだけ載せるつもりでありましたが、そのすべてが載せられたとは思っておりません。それは私たちの次の世代の人が書き残すかもしれません。
 もう一つのポイントは、私たちはこの原点にどう向き合うべきか、ということです。聖書には先ほどの「今日」という言葉と共に、7節、8節「今日、・・・心をかたくなにしてはならない」、15節に「今日、・・・心をかたくなにしてはならない」と「かたくなにしてはならない」と二度書かれています。これらの言葉が意味するのはその原点から逃れないで真摯に立ち向かうようにと教えられているような気がします。
 前回の証詞「福音―受容と応答」(ルカ15:11-32)で父親の願いとは、赦しを乞いながら親元に戻って来た放蕩息子より、親元を離れず居ながらも親兄弟に心を許さない長男の方へ向かっていると申しました。心をかたくなにするなという言葉は、まさに今を生きる重要な姿勢ではないかと思います。40年という大きな節目、そして原点を前にして、最後の1ヶ月間を仕上げたい。勿論この先にも時間はあります。ただ、今日、今という時に、心をかたくなにしていては、明日はありません。無論、今の時から逃れたい誘惑も多いでしょう。 
 もう一度説教者に聞きます。13節、14節。
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。
(2010年10月3日証詞より/ろば187号)
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