戻る
    第三の誘惑(出エジプト記32:15-24)
 共観福音書にはイエスが荒野で悪魔から誘惑を受けている場面が紹介されています。今日はイエスが受けた三つの誘惑の中より第三の誘惑について考えてみたいと思います。そして、聖書のテキストが出エジプト記になっていることについては後程ご説明したいと思います。

 イエスがヨハネから洗礼を受けてから公的活動を始めるまでの間に、一人で荒野に行き、そこで40日間過します。その荒野ではサタン・悪魔から誘惑を受けたと共観福音書に書かれています。ただ、マルコの場合は誘惑の内容がなく、マタイとルカに三つの誘惑の内容が記されています。その三つの誘惑については既にご存じだと思いますが、簡略に紹介しますと、第一の誘惑は、イエスが何にも食べず空腹を覚えられた時に、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」という内容です。第二の誘惑は、イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界の全ての国々を見せてから、「もしも私を拝むなら、この国の一切の権力と繁栄とはあなたのものになる。」という内容です。第三の誘惑は、エルサレムの神殿の屋根の端にイエスを連れて行き立たせ、「神の子ならここで飛び降りたらどうだ。神はあなたのために天使たちに命じて、しっかり守らせる」という誘惑です。ただ、この誘惑の順番はルカによる順番でマタイとは第二と第三の誘惑が逆の順になっています。今日の題はルカの順番に基づいたものです。
 この三つの誘惑を見ていますと、第一と第二の誘惑については何となくわかりそうな気がします。大体の人が求めている豊かさや名誉や権力のようなものではないかと思います。ただ、第三番目の誘惑をどう理解し、どう受け止めれば良いのかがこれまでのわたし自身の難問でした。しかし、これについて最近何となく分かるような気がしてきました。この第三の誘惑に限っては聖書を見る限り、神殿の屋根の端から飛び降りて何のメリットがあるのかがよく分かりません。何が得られるのかだけではなく、何を言おうとしているのかも分かりません。これについての参考書から納得しそうな答えも未だ見つかっておりません。ここを奇跡とみている人はいます。確かに高いところから飛び降りても神に守られ、命が助けられ、怪我しないのは奇跡でありましょう。しかし、わざと飛び降りるまでのことをしなくてもいいのではないかと思います。そもそも何でこの誘惑が三つの誘惑の中に入っているのかが理解しがたいところです。
 もし、この誘惑は神の御守り、神の保護として考えてみたとしましょう。例えば、病気になった時、何か困難な状況に置かれている時に、私たちは神の御守りを切に祈ります。これならちっとも可笑しくないと思います。神を信仰する者として当然持ちうることだと思います。祈りはこれにもっともふさわしい形だと思います。
 しかし、問題は何故それを「誘惑」といえるのか、そして何故イエスはこれが「誘惑」だと思い断ったのであろうかというのが今日の疑問です。福音書には「誘惑」という言葉がそれほど多く使われていません。荒野の誘惑の他にはイエスが最期の時にオリーブ山で神に祈られた時のことがルカによる福音書22章39節以下に書かれていますが、この時に、一緒に祈っている弟子たちに三度、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と注意を喚起するところに使われています。そして、この時に苦難と死を前にしたイエスが、42節で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈ったのは第三の誘惑を断るような事ではないかと思います。誘惑についてもう一か所あります。それは皆さんもご存じのところで、「主の祈り」です。「われらをこころみにあわせず」、ルカの本文には、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」(11・4)と書かれています。即ち、イエスのこの誘惑への拒否が主の祈りを通して毎回祈られているというのは私たちの信仰においてもとても大切な内容であることを示しています。
 このように私たちも困難な時は神の御守りを切に祈ります。しかし問題は、もしも三つ目の誘惑がこのように困難な時の神の御守りを求めることでありましたら、当然と思われるこれらをどうして聖書は三つの誘惑の一つとし、しかも、イエスはこれを拒否したのでしょうか。このままの理解ですと神に保護を求めること自体が誘惑という話になります。ここで再び第三の誘惑とは何かという最初の疑問に戻ります。もう一度これら三つの誘惑について考えてみたいと思います。荒野での飢えと極端な孤独の中で、最大なる誘惑はこの三つの誘惑を合わせるもの、即ち悪魔として現れる自分の中に存在するエゴが活発に活動し始める段階で、それに負けやすくなる状況でもあります。飢えている人にパンの誘惑、そして極端な孤独の中で世界の全てが得られるというのは最たる誘惑だと思います。これらと同じく、第三の誘惑もエゴに関することと思います。イエスの荒野の後の生涯の全体を眺めますと、これらのことも分かりそうな気がします。イエスはその生涯において富や豊かさを求めたことがありません。そして、世の権力を求めたこともありません。そして、先程申し上げましたイエスがオリーブ山で祈りの後に、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なって下さい。」と祈られます。この祈りこそまさに第三の誘惑からの脱出とみてもいいものではないかと思います。イエスは神の御守りも断りました。イエスは自ら、恥辱と十字架の苦難と死を受け入れるのです。そうしますと、私たちの信仰の内容は神の御守りまでお断りするほどのことになるのでしょうか。ここで、出エジプト記の話しに移りたいと思います。今日の聖書の本文を以て絵を書いてみると想像してみます。絵には重要な二つの場面が並べて描かれると思います。一方には神から与えられた石板を持って、人々に投げつけようとするモーセ、もう一方には金の子牛を拝もうとするアロンとその群れが描かれるでしょう。エジプトを脱出したイスラエルの民は荒野を旅し、シナイ山の麓にたどり着きまして、そこでモーセはシナイ山に登り、40日間滞在します。無論、この間イエスの荒野での過し方のように、何にも食べずに滞在します。そして、神から与えられた十戒の石板を持って山を降りて行きます。その時、山の下ではアロンが民から求められる通りに人々から金を集め、子牛を造り、それが荒野で自分たちを導いてくれたと思い、祈っているのです。十戒の石板を持っているモーセと金の子牛を拝み、祈っているアロンとイスラエルの民、この二つの場面は私たちに何を見せようとするのでしょうか。その内容は相対立するものです。共存できないものです。これらの場面で驚くべきところはモーセが神から授けられた石板を人々に投げつけるところです。神から頂いた大切な契約の石板を民に投げつけるモーセの行動、この場面はまるでイエスがエルサレムの神殿の中で怒り出した時を思い出させます。二人とも大変な人物だったでしょう。これこそ第三の誘惑に関わる内容ではないかと思います。出エジプト記の内容を見ますと、イスラエルの民の荒野での40年間、あらゆる誘惑との戦いの内容が描かれています。水がない、食べ物がない、エジプトの肉鍋が懐かしい、エジプトへ戻りたい、ありとあらゆる誘惑との戦いでした。この場面における神から与えられた十戒の石板、律法とは何を意味するのでしょうか。それはこれを以て「神に頼るな。」、「神から自立しなさい。」というものだと思います。神が見えないから偶像を造るのではなく、律法を以て自立しろと言われているような気がします。律法の第一も愛、第二も愛であります。それは神を愛し、他人を自分のように愛することというのです。即ち、神に頼るのではなく、エゴに生きるのではなく、互いに約束を結び、契約を守り、互いに支えながら生きることを指示していることだと思います。モーセが石板を投げつけたのは契約の破棄です。エゴに生きる人には契約は必要ありません。共に生きることを求めている共同体にのみ必要なものです。金の子牛は契約の対象になりません。エゴの象徴です。
  整理しますと、第三の誘惑を拒むのは神に頼らないことです。神から自立する信仰です。神にいつまで縋りつく信仰からの出立です。これは一瞬、信仰に相反するように見えます。しかし、大きな意味合いで、長期的な見方ではこれこそ神が望まれることで、人類皆のためになることと思います。イエスやモーセの生涯とは、神への深い信頼の中で自立へ向かっての働きでした。イエスやモーセが求めた神の国やカナンにおけるイスラエルとは神の下で共同体の主体的自立を完成することだったと思います。その働きはその後を生きる人々、私たちに受け継がれています。それは親の夢への応答、自らの子供が成長し親元から離れ、新たな共同体を創って行くようなものではないかと思います。
(2011年11月20日証詞より/ろば191号)
戻る