戻る
    改革への遺産(アモス書4:4-5、5:4-5) 
 ペンテコステはキリスト教ではクリスマスやイースターと並べられる重要な暦です。この日はイエスに従っていた人々がエルサレムで集まり、新しい共同体として一つになったことを記念する、いわゆる教会の誕生日ともいえる日です。
  今日はこのペンテコステを少し見る角度を変えて考えてみることにしたいと思います。そのため先ず、ペンテコステをユダヤ教の暦から見てみたいと思いますが、イースターが出エジプトを記念する過越の祭りの日と関連しているように、ペンテコステは、出エジプト後のイスラエルの民が荒れ野のシナイ山で神と契約を結び、律法を与えられたとする記念日です(刈り入れの祭り)。即ち、出エジプトをしたイスラエルの民がこの日、神との契約を結ぶことで神の共同体として一つになった、或は生まれ変わったことを記念する日です。このような内容から見ますと両方の意味が深くつながっているように考えられます。律法の代わりに聖霊が与えられたという違いはありますが、その象徴性はとても似ています。そして、新しい共同体の誕生や共同体の生まれ変わりというところではほぼ同じ意味を持っているように見えます。
  ユダヤ教との関連でもう少し考えてみますと、この日の集いの場所はエルサレム。使徒言行録から見えるイエスの弟子達は、当時エルサレムに滞在しながら神殿に毎日のように通ったと書かれています。この段階での彼らの集団はユダヤ教の一派のように見えたに違いありません。他にも、パウロを始め使徒達がエルサレムを離れる場合はユダヤ教の会堂で聖書を読み、イエスキリストについて宣教をしたとも書かれています。要するに彼らはユダヤ教の改革派で、穏健な立場の人々のように見えたはずです。このようなことからペンテコステは、出エジプトから1400年程後にユダヤ教を是正しようとした運動の始まりであり、ある意味で宗教改革の事件であったと考えられます。この運動は失敗に終わりますが、結果キリスト教として世界宗教へと大きな跳躍を見せます。
  しかし、世界宗教と申しましたがここに大きな世界観のずれがあります。これらの時代の世界とはローマ人が考えていた世界でありました。世界とは地中海の沿岸地域のことです。アジアからみますとそれは世界とはいえない狭い地域のことでした。それでは実際にキリスト教が世界宗教になったのはいつ頃からで、どんなことが切掛けであったのでしょうか。それは15世紀に大航海時代が始まると共に、16世紀に起きる宗教改革の以降です。日本との関連で考えてみますと、イエズス会神父フランシスコ・ザビエルが日本の鹿児島に着いたのが1549年で、イエズス会がローマ法王の公認を受けたのが1534年です。ルターによる宗教改革が1517年ですので、イエズス会はそれから17年後に始まった修道会です。イエズス会の主な目的は反宗教改革です。反宗教改革とはプロテスタントに対抗するだけではなく、カトリック内部の宗教改革も含むものです。イエズス会はそれまで失墜してしまったカトリックの権威や威厳、或は勢力を取り戻すための先鋭隊でした。これよりキリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれ、全世界を舞台にし、宣教への競争を繰り広げ、その結果、ヨーロッパから見ると地の果てになる日本まで足を伸ばし、宣教を一時的に成功させるのです。
  ここで、あまり知られなかった宗教改革の一つを紹介したいと思います。一般的に宗教改革といいますと16世紀に起きたルターやカルバンによる宗教改革のことを思い出しますが、それより百年程前に大変注目すべき宗教改革があったことを覚えている人はそれほど多くはないと思います。先ほど、ペンテコステは出エジプトから1400年程後に起きたユダヤ教の宗教改革だと申しましたが、そのペンテコステから更に1400年後に起きたキリスト教の宗教改革です。それはボへミア王国の首都プラハで起きました。当時のプラハ大学の教授であり学長であったヤン・フス(Jan・Hus)によって始まった改革運動です。その結果、フスは1415年7月6日に背教者として火あぶり刑にされますが、その後この改革をめぐってフス戦争が1419年から1436年までおきます。このフスの改革は急進的に行ったことが原因で失敗したといわれています。しかし、フスの宗教改革が失敗に終わったといっても、100年後に起きた宗教改革への影響は大きいと思います。それと同時にチェコにおいてこの改革の遺産は今でも続いているというのが研究者たちの結論です。日本では畠山保男の『歴史の主に従う』(新教出版社、1995年)があります。(この本はチェコスロバキアの神学者J・Lフロマートカについての研究です。)それと、姉妹教会の趙容来氏が慶応大学の博士論文として出された「初期ヘルンフート兄弟団における経済と宗教」(1996年)はフス戦争以降登場した、ベーメン兄弟団に関して書いた論文で、序論部分にもフスの話が書かれています。
  その改革の内容は非常に興味を引くものです。フスの改革の要は「プラハ4条項」です。その内重要と思われる内容を二つ紹介しますと、
一、(省略)神の言葉は、妨げられずにのべ伝えられ、聞かれるべきである。

一、聖晩餐は、キリストの制定に従って、二つの形のもとに、即ちパンと葡萄酒という形のもとに、全ての信者に授与されるべきである。
  この二つの条項は改革の重要な内容で、信徒と牧師を分けない形を取っています。それにルターが初めて聖書をドイツ語に訳したといわれていますが、フスはルターより先に説教や聖書朗読をラテン語ではなくボヘミア語で行ったといわれます。それと聖晩餐はカトリックではパンのみでしたが、フスはぶどう酒を回し飲みしたといわれています。ともかく、当時としては両方とも物凄く画期的な改革の内容だったと思われます。
  フスの改革の伝統に立っているグループの教会論的なところを見ますと、百人町教会にも当てはまりそうな内容であるのに気がつきます。教会は巡礼者の共同体という考え方です。「この教会は固定した定住地を持っていない。それは決して制度にはならない。それはいつでも光彩がなく、貧しく、地味で、どんな外面的な権力もないままであり、この教会はたえざる運動のうちにあり、いつでも途上にある。」(『歴史の主に従う』46頁)
  さて、聖書の話をしたいと思います。
  本文は紀元前8世紀の預言者アモスの預言の一部です。ベテルやギルガルとはイスラエルの初期頃から重要な聖所があった場所です。ソロモン王の死後イスラエルは南のユダと北のイスラエル分裂しますが、両方とも北イスラエルに属する場所です。分裂によりエルサレム神殿に参ることができなくなった北イスラエルにおいては、再び聖所として重要視されるようになります。そして、その町は常に人々と犠牲として使われる牛などの動物でにぎわっていました。
  そのようなところにアモスが現れ、人々に本文のようにいいます。先ず、4章を見ますと、「ベテルに行って罪を犯しギルガルに行って罪を重ねよ。朝ごとにいけにえを携え三日目には十分の一税を納めるがよい。感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼け。大声で、随意の献げ物をする、と触れ回れ。イスラエルの人々よ、それがお前たちの好んでいることだと主なる神は言われる。」
  ベテルに行きなさい、ギルガルに行きなさいといいますが、驚くのはそれが罪を犯すためだというのです。その罪とはよくわかりませんが、儀礼のために熱意を持って触れ回っている姿が気になります。今度は5章を見ます。
「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。しかし、ベテルに助けを求めるな、ギルガルに行くな、ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移されベテルは無に帰するから。」

  今度はベテルやギルガルに行くなと書かれています。ここでの重要な言葉は、「わたしを求めよ、そして生きよ」です。儀礼や礼拝が、また宗教や信仰が決して他人に見せようとする、或は自己満足をするためのものではないことです。
  ベテルとギルガルは、エルサレムから見ると一地方に過ぎません。しかし、アモスの預言は決して彼らを切り捨てようとするものではないと思います。むしろ、そこからの改革を望んでいたと考えられます。その預言者を通して絶えなかった改革への働きは、遺産としてキリスト教へと繋がり、その改革への遺産はフスとその後の宗教改革を経てわたしたちの時代にも続いていると思います。ペンテコステ、この日は単なる教会の誕生日ではなく、「主を求め、そして(改革を)生きる」のを再確認する日です。百人町教会は小さきグループに過ぎません。しかし、これからも改革への遺産を大切に思い、それに生きる共同体であることを願います。
(2012年5月27日ペンテコステ証詞/ろば193号)
戻る