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    管理人(ルカによる福音書16:1-13)
 このたとえ話の主人公はある金持ちに属している一人の管理人です。この管理人は3節の「土を掘る力もない」、「物乞いをするのも恥ずかしい」という内容からその日まで長い間この金持ちに雇われ、周りの人から信用されてきたものと思われます。しかし、この管理人に対する疑惑がある日突然周辺から浮かび上がりました。疑惑とは雇い主の財産を無駄使いしているという告げ口があったということです。財産を管理している人にはこのようなことは常に付きまとうことと思いますが、さて、これに対する雇い主の対処は素早くて丁寧なことでした。「あなたに対して聞いていることがあるが、如何なことでしょう。」と聞いた上で、「会計の報告を出しなさい。」というのです。
 この指示に対する管理人の行動も雇い主以上に素早いことでした。ただ、その中身は疑惑を是正しようとするものではなく、自分の将来の生活保障を確保しようとするものでした。彼は債務者の一人一人を呼び出し、返済するべき内容の一部を免除してあげました。これは会計の報告、即ち財産管理帳簿を故意に修正することで背任罪にあたる行為です。
 ここで今日の内容で一番の難問にぶつかります。即ち、雇い主はこの管理人の疑惑を正すどころか、逆にこの管理人の行動を「抜け目のないやり方」だと褒めているのです。このことが一体何を意味するのか理解困難なところです。言葉尻を捉えますと、泥棒が自分の仕事を抜け目のないやり方で勤めればいいようにも見えます。しかし、まさかイエスがそのようなことを教えるはずがないだろう、と思うのが聖書を読む人の一般的な考え方である以上、私もその一人でありますが、この相矛盾する雇い主の判断をどう理解するべきか思い悩むところです。
 最近、田中正造の伝記のように書かれた『果てなき旅』(日向康著、福音館)を読んでいますが、上巻の前半部に田中正造が下野の国の小中村の名主をする話が長く書かれています。名主とはご存知のように百姓の管理職です。田中正造の領主は六角家といいまして、驚いたのはその六角家の江戸屋敷が我が家族が約11年間住んでいた富坂キリスト教センター辺りであることがこの本を読んで初めて分かりました。小石川の千川通りに面した商店街から上富坂教会の方へ上る坂道がありますが、その坂名が六角坂だったことを思い出しました。その江戸屋敷には六角家の全ての財産の管理をまかされている筆頭用人という管理人がいました。林三郎兵衛という人物ですが、彼は農民のために剛直な名主だった田中正造とは真逆な人物で、自分のため常に領家に属する名主の間に分裂を画策し、百姓からはより多く搾取しようとします。これに対し田中正造は名主らを糾合し、彼らと闘い、それが原因で田中正造は六角家の牢屋の中で約1年半過ごすようになります。その後、田中正造は名主職を解任され、村からの追放を受けた後、江刺県の花輪にある支庁で下役の管理を勤めるようになります。この時も彼は貧しい村百姓のために渾身の思いで勤めますが、殺人犯という濡れ衣を着せられ、また3年ほど投獄されます。百姓のためならと思った道を歩もうとした田中正造には、彼を裏切るような事件が死ぬまで付きまとうのです。
 さて、この管理人の行動やそれを褒めている雇い主の判断をわたしたちがどう理解すればいいのでしょうか。田中正造の話でどこかヒントとなるものはないかと考えてみましたが、やはり無理がありそうです。ただ一つ近いと考えられますのは、前後関係は逆転しますが田中正造は名主として常に百姓の権利を擁護しようとしたことです。それによって領家の筆頭用人からは常に厄介な存在になっていたことは少し似ているところではないかと思います。
 もう一つ、8節で「不正」と表現したその根拠とは「無駄使い」以外にそれまでどのような不正があったのか何にも書いてありません。それに管理人は債務を全て許したわけではありません。5割、3割というのは何らかの基準があったようにも見えます。例えば嵩んだ利息を削減するか、元本だけ残すかという行為です。雇い主の褒め方を逆手に取りますと、「不正」という表現は一般常識の範囲を超えないものであることと考えられます。即ち、雇い主の考え方はそれを超えるもので、不正という表現に捕われてしまうとこの聖書を理解するのは無理かも知れません。
 聖書の前では常に自分の生き方だけでなく、考え方も問われていることをいつも感じます。同時に自分の生き方や考え方に大きな限界を感じることが毎回のことです。今日のような特別に難解なイエスのたとえ話の前ではさらにそうです。聖書の内容を理解できるものを自分が持っているかが問われるのです。聖書の前では自分を相対化する、リセットすることも必要となります。その上、聖書を社会の道徳や倫理のように教科書的な枠組みの中で受け止めようとするのには些か抵抗を感じます。イエスがたとえ話を通して教えようとする神の国の内容はこの世の社会倫理の範囲に収まるものとは思いません。聖書の原風景を失っている今、私たちが聖書を素直に理解することは難しいことです。確かなことはイエスご自身もそのような律法や倫理的環境から自由ではなかったことです。それらにつき惑わされ、この世的な観点から不正な管理人となり、死ななければならなかったのです。そのためかイエスはわたしたちに世相を否定することより、それを乗越えていく考え方や生き方を教えているように見えます。例えば、9節に
「不正にまみれた富で友達をつくりなさい。」
と書いてあります、これも社会の常識では通用しない言葉だと思います。このようにイエスはその弟子たちやファリサイ派の人々に常に何かを訴えかけていますが、さてそれを誰がまともに理解しているといえるのでしょうか。ただ、その限界を分かった上で自分をリセットしながら聖書との真の出会いを求めているだけのことです。

 次なる読解の焦点は金持ちといわれている雇い主の考え方です。この人は財産の維持や儲けのことばかり考えている守銭奴とは違うように見えます。もしかすると彼は自分の財産を如何にいさぎよく再分配出来るかを日々考えながら過している人だったかも知れません。このような人を認識するには固定観念を破らなければなりません。厳しい社会状況の中で仕事を失い、日々の糧が得られなくなり、借金地獄に落ちている人々への心持ち、それは不正な管理人といわれた人が自分のために不正な行動を取ったかも知れませんが、その結果雇い主は喜んだというこの話の原点は管理人でも金持ちでもないように見えます。従って、この聖書の話では、管理人も雇い主も社会通念とは異なる何かによって動かされていたということです。それは封建社会のなかでお上に逆らうことまでしながら百姓の権利を守ろうとしていた田中正造とその原点を一緒にする考え方であったかも知れません。
 衆議院が解散されました。野田さんの解散の態度や遣り方には大きな疑問を感じます。国民のため云々と常に言うが、彼らが自分たちの真の雇い主だと思うのは一体誰なのか、それが国民だと言うのは選挙の時と自分たちに都合のいい時だけで、本当は何人もの主人に仕えているような気がします。否、誰にも仕えていない、あるいは都合良く利用しているだけで、自分が管理人であるのを忘れているのではないかと思ってしまうのは間違いでしょうか。今度の選挙では15ほどの政党が乱立し、それぞれの主張が違って見えても、ある一貫性を持っているのも事実です。経済成長の実現、社会福祉の合理化、そして憲法改正など。しかし、これらの主張が市民の生活とどこまで関係があるのかを彼らが確認しているのかは疑問です。彼らの多くは国の財政が困難であるため消費税を引き上げるか、老人の介護費用や生活保護費用を批判し、最低賃金まで無駄使いだと批判しています。
 今日の聖書はこのような主張とは真逆の発想のように見えます。管理人の行為は当時におけるパレスチナの格差問題を具体的に是正する働きだったかも知れません。2000年に40カ国以上が連体し、世界の最貧国の債務の帳消しを求める「ジュビリー2000」の運動を展開しました。これは国際的な格差問題を是正するためだったのです。当時日本の政治家がどれほどこの考え方に賛同していたのかは分かりませんが、これはまさに不正な管理人の行為に似ています。別の見方をすると無駄使い、不正な管理の遣り方でしょう。現在多くの国ではグローバリゼーション以降格差の問題で悩まされています。日本も例外ではありません。政治家らが主張しているように、もし今後経済成長を成しとげたとしても格差の問題が解決できるとは思いません。さらに深刻化するだけです。この聖書の教えを借りれば、固定観念を破り、発想の転換をし、無駄使いが必要だと主張する政治家・管理人を雇う方がいいかもしれません。

(2012年11月18日証詞より/ろば195号)
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