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    何を求めているのか(ヨハネによる福音書1:35-42)
 証詞の題、「何を求めているのか」は、38節から取ったものです。この言葉はヨハネによる福音書においてイエスが語られた最初の言葉として位置づけられています。福音書における最初のイエスの言葉はそれぞれ違います。一度確認してみましょうか。マタイによる福音書では、3章13節以下でヨハネとの洗礼をめぐっての対話です。ヨハネが洗礼を受けようとするイエスに14節で「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」といったところに、その答えとしてイエスが15節で「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」といいます。マルコによる福音書では1章14節に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。ルカによる福音書では2章41節以下で少年イエスを探し求めていた親との対話の中にあります。49節に「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と。これらの言葉の位置づけに意味があったのかどうかは分かりませんが、それぞれ異なるのが面白いですね。
 ヨハネによる福音書ではこれと少々異なる雰囲気を醸し出しています。イエスの言葉は「何を求めているのか」という問いかけの言葉から始まっています。1章1節に「初めにことばがあった」と書いたのを見るとさすがにヨハネ的言い方だと思ったりします。この言葉にどのような意味があるのかについては後ほど考えたいと思いますが、ここでとりあえず申し上げたいのは、この問いは今日を生きているわたしたちにも同じく語られている言葉として受け止めて考えてみよう、と思っていることです。
 ヨハネによる福音書の1章におけるこの日、ヨルダン川の辺を歩いていた人々が遭遇するこの場面の中でかけられた声。「何を求めているのか」この言葉には如何なる意味があったのでしょうか。考えられますのが幾つかありまして、一つは、もっとも確かなことで、何かを求めていたということです。今のところ足りないことが一つもないので何にもいらない、或は全てを諦めた状態で求めるものはないという人にはこの問いは該当しません。何かが欠けているか、何かを求めざるを得ない状況におかれている人を前提しての問いかけだと思います。もう一つは、この言葉は声をかけられた人だけでなく、声をかけた人にも該当する問いだと思います。即ち、この後に弟子となる二人のみでなく、イエスご自身にも発せられた問いだということです。三つ目は、この出会いの最初の時に発せられたこの問いは、両者の人生において生涯付きまとう言葉であったということです。イエスが最後の十字架の上で発せられた言葉もこの言葉に繋がっていると考えられます。
 それではこの人たちが求めていたのは何だったのでしょうか。
 この頃、婚活、結婚相手を求め合う企画や催しが結構あると聞いておりますが、これはただ結婚相手を求めているのではなく、その条件として学歴や財力を始め、結構厳しいハードルがあると聞いております。その条件をある程度のレベルまでクリアーした時に初めて相手となる可能性が現れます。その後も、デート等で相手の性格や能力等を確認し合う段階を経てゴールインに至るのです。これでは一体何を求めているのか、人なのか財物なのかさっぱりわからない所があります。さて今日の聖書とこのような婚活とを比べるのは大変無礼なこととは思いますが、ご利益を優先する現代人における宗教の選び方にも相通じる所があるのではないかと思ったりします。
 ヨハネによる福音書でイエスから弟子となる人らへ発せられた「何を求めているのか」という言葉によって、両者が師匠と弟子として結ばれるための唯一なる条件の確認が取り交わされたような気がします。それはこの問いに対して弟子になろうとする二人が何と答えたかを見ると見当がつくと思います。しかし、その答えは見当たりません。何処にその答えがあるのでしょうか。彼らはこのように答えました。
「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と。
 これは凄く優れた答えだと思います。そうしますと、今度はイエスも更に驚くべき答えを出すのです。

「来なさい。そうすれば分かる」
 両者のやり取りはまるで禅問答のように見えますが、禅問答でも公案でもありません。この問答を理解するのは難しくないと思います。先ず、二人の答えとして挙げました「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」というのは、答えとして認め難いところがあると思いますが、理解を重ねますと、要するにこの言葉は「それではラビ、あなたは何を求めておられますか」という意味合いがあったのではないかと思っているのです。この推測はこの後のイエスの答えを見ますととても明快に理解できると思います。
 「来なさい。そうすれば分かる」これはイエスがどこで泊っているのかを尋ねる言葉でもありますが、その晩に寝食を共にしている間、互いに求めているのは何かを尋ね、確認し合い、弟子となる覚悟を決めたのではないかと思います。
 ヨハネによる福音書ではこのようにイエスと弟子との出会いが、他の福音書のように一方的について来なさいという言葉になっていないことです。互いに思いが一つであった時に、求めている内容が一致した時に、師匠と弟子としての関係が成立したということです。
それではその成立の内容は如何なるものだったのでしょうか。その答えも、この聖書に書いてあります。翌日の午後四時頃、二人の中の一人、シモン・ペトロの兄弟アンデレが自分の兄弟シモンに言った言葉です。41節、「わたしたちはメシアに出会った」と。そしてシモンをイエスのところに連れて行ったと書いてあるのです。彼らが求めていたのはメシアであったということ、それは、イエスが求めている神の国と一致する内容であったのです。従って、この日ヨルダン川の辺で遭遇した両者は師匠であり弟子である関係となりますが、同時に神の国を求めている同士との出会いでもあったのです。
 ここでわたしたちがさらに理解しなければならないことは、例えば、ルカによる福音書3章15節に「民衆はメシアを待ち望んでいて」という言葉がありますように、この出会いを互いに求め合うまでに至る間には、痛切な悩みや葛藤があったということです。そして、その出会いは全生涯をかけての試みであったことも忘れてはなりません。従って、この出会いと問いかけは人の生き方や社会、歴史において大転換を起こします。別の意味ではイエスグループ誕生の瞬間であり、後に理解するように原始キリスト教の誕生の瞬間ともいえるのでしょう。
 このような出会いを求めたくない方もいらっしゃると思いますが、世の中には求めざるを得ない状況というものもあります。両者が求め合う背後には孤独だけでなく、飢えや渇き、苦しみや悲しみのような切なさがあったということ、そしてそのため、息を殺して出会いの日を待ち続ける人が世の中のどこかに今でもいることを覚えている必要があるでしょう。
 このようなことを考えながら思いますのは、求めるものをはっきり持っている人は幸せだということです。自分が求めているのが何かをも知らない人はある意味で不幸な人です。何故自分がキリスト者になったのか、何のために教会に通っているのか、今何を求めているのかが分からないことはある意味で危険なことです。キリスト者が、教会がその目標を失った時に分裂を起こすことは、数多く目撃してきました。
 「何を求めているのか」 

 これは今、キリスト者であるわたしたちにも同じくかけられている問いだと思います。これはわたしたちそれぞれの人生における、或はこの時代における、悩みや葛藤を含めての問いでしょう。わたしたちにイエスと一致する応えがあるのでしょうか。わたしたちにこのような出会いの経験はあるのでしょうか。
 人と人との出会い、人生のなかで誰と出会うかによって人は成長したり破綻したりというのは周辺にいくらでも見られることです。出会いの成敗は何を求めているかによって大きく変わるところがあります。主イエスキリストとの出会い、それは神の国を求めている同士であること、全人格と全存在をかけられるもの、もしそのような出会いがわたしたちにとって可能でしたらそれ以上求めることはないでしょう。
 私自身、この方との出会いが自分の一生を変えました。今日、ここにいるのもこの方のお陰であります。私自身が今求めているのは、全ての時間と全ての経験とを、全ての出会いと全ての存在とをかけて聖書の教えを学び続け、それを出来る限り分かちあえることです。そして、キリスト者の一人として生きることだと思っています。

(2013年1月20日証詞より/ろば196号)
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