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    エリヤ、鳥とやもめに護られる(列王記上17:1-16)
 列王記上17章の内容は非常に分かりやすい物語で、ある種の預言者的象徴性を持っている内容ではないかと思われるところがあります。今日はその象徴性について考えてみたいと思います。

 預言者エリヤの物語はこの17章から始まるわけですがエリヤについては非常に簡単な紹介しかありません。1節に「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤ」と一言だけです。ギレアドというのはヨルダン川東側に位置する部族名で、ティシュベとは地名です。エリヤはそこの住民であったと預言者における召命記事のような前触れも全くなしに登場します。そして預言がいきなり始まるのです。それが一節です。

ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」

 旱魃の預言です。神が数年間イスラエルに雨を降らせないという預言です。これが何を意味するのかですが、バアルの神とは雨の神です。雨を降らせないというのは雨の神であるバアルの神を無力化することです。このことは北イスラエル王国のアハブ王の親バアル政策に対するヤハウェの反応、応答です。

 しかし、エリヤが次の18章で最も気にしているのはアハブ王のこのようなバアル政策でもなく、バアルの預言者でもなく、イスラエル民の姿勢に問題があることを強く批判しています。

 18章21節です。

エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」

 今日は参議院選挙の日ですが、結果は非常に悲観的、否、自民党側から見ると非常に楽観的なものかも知れません。しかし、自民党安倍政権の経済優先、平和憲法のぶっ壊し、原子力推進、近隣諸国との関係悪化等々は、アハブ王の親バアル政策に近いものだと思いますし、今回参議院選に出ている自民党候補を含め、物事をはっきりいわないで誤摩化している他の政党の候補もバアル預言者に近い存在だと思います。

 しかし、それは仕方ないとしても、問題はエリヤが批判している民の生ぬるく、日和見的態度だけではありません。もう一つ、大切なところがありました。カルメル山上でのバアルの預言者450人とアシェラ400人、合わせて850人と対決していた現場にヤハウェ神の側からはエリヤ一人しかいなかったのかということです。18章4節にイゼベル王妃の迫害から100人が救われたと書いてありますが、一体この人たちはこのような大切な時期にどこにいたのでしょうか、というところです。これも推測ですが、預言者らの切り殺しは見せしめ的なもので、それを見た民らは当然権力に対する恐怖感を感じたと思います。そして、切り殺しから救われた預言者らも実は権力に対する恐ろしさはリアルに感じていたことでしょう。

 17章3節の神からエリヤへの指示の言葉、

ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。
 また八節の

立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。

という言葉は旱魃のみではなく、迫害から身を隠すという意味もあったと思われます。

 そこで、何を申し上げたいのかですが、カルメル山上のような対決の時が来た時にエリヤはこうやって姿を表しましたが、100人の預言者はどこにいたのか姿を表していない。それだけでなく彼らからは何の声も聞こえて来ない。民らは動員されたのかどうか分かりませんが、バアルと神との対決の経過を見に集まりましたが100人の預言者はその場にもいません。

 これは日本のキリスト教の立場と似ているのではないかと思います。今回、日本のキリスト教はどのような声を礼拝の中で出したでしょうか。特定候補や政党を支持することを言っているのではないです。この国のこれからの重要な政策に対する確実な立場を表明することは福音と重なる重要な課題と思います。戦時中の教会は権力を恐れ、平和や戦争反対の声を出しませんでした。しかし、今はどうでしょうか。迫害が待っているわけでもありません。自らビビって何の声も出せないカルメル山上へエリヤを応援にも来ない100人の預言者とどこが違うのでしょうか。名前だけでキリスト教を信じていることと何処が違うのでしょうか。民よりも卑怯な姿です。今回だけではないですね。ずっとそうやって来たのです。これからもきっとそのように生きるでしょう。声を出すべき時に何にもいわない。いるべき場所にいつもいない。

 昨日、宮崎駿監督のタジオジブリの月刊小冊子『熱風』7月号に書いた文章が大きな反響を起こしていることが分かりまして、早速ジブリのホームページで小冊子をダウンロードして読んでみました。自民党や安倍政権についてはっきりと物事をいう宮崎監督の勇気がエリヤのようなものだと思いました。

 ここで何故、アハブ王権の前で、そして1対850という力関係にも関わらずエリヤはものをいえたのかについて考えてみたいと思います。それは神が共におられるからということでいいきれるのでしょうか。もしそのようなことがいえるなら、教会は社会の不条理を前にしてどうして黙っているのでしょうか。それは神の御旨とは異なるというのでしょうか。それを誰が決めるのでしょうか。列王記を読みますと何となくこのことが分かるような気がします。

 エリヤと100人の預言者らが対決前に護られてきた環境ははっきりと異なるのが分かります。18章の前半部で100人の預言者を救った宮廷長オバドヤがエリヤに道で出会った時にいった言葉です。18章の13節です。

イゼベルが主の預言者を殺したときにわたしがしたことを、あなたは知らされてはいないのですか。わたしは主の預言者100人を50人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養いました。

 今度はこの言葉とエリヤとの関連箇所を比べてみます。一つは17章2節からはじまります。神はエリヤに「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」といいますが、この内容は6節まで続く話になっています。

主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。

 7節にはこの川の水が涸れてしまったことが書かれ、9節で神は再びエリヤにいいます。

立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。

 今度は異国であるシドンのサレプタという町に住んでいる名も知られていないやもめによって護られるのです。鳥だって名前があるわけではありませんが、この話は16節まで続きますが飢饉による凄絶な内容が語られています。一握りの小麦粉とわずかな油が残っていて、薪2本を拾って来て、それを焼いて息子と二人で食べた後、死ぬのを待つつもりだといいます。その後の話は奇跡の話です。旱魃の時にエリヤはこのように鳥に養われ、異国のやもめに養われたということです。

 宮廷長オバドヤが養った100人の預言者とエリヤの過ごし方の違いがはっきりお分かりになったと思います。このどちらがアハブ王やバアル預言者へものをいえたのかについてもお分かりになったと思います。政治家は企業からの政治献金を幾ら集めるかによって権力の維持が出来ます。それは企業の恩を着ることです。企業側は政治家にできるだけ恩を着せるようにします。当然、政治家から企業側にものをいえる立場がなくなります。電力会社から政治献金をもらっている政治家らが脱原発を言うのは無理だと思います。

 このような危機の時にエリヤが自分に力となる権力側の人や裕福な人らをパトロンにし、護られたとすればきっと楽だったでしょう。しかし、その先預言者としてはどうなったのでしょうか。神は何故鳥のような動物を通して、そして名もないやもめを通してエリヤを危機から護ったのでしょうか。

 私はこの聖書を読みながら、鳥はバアル神に、やもめはアハブ王に対比してみました。名もない鳥でありながら、或はやもめであっても自分のものを人にあげても預言者の命を助けるが、バアル神とアハブ王は自分のために、エリヤだけでなく大勢の人を殺すのです。この17章のエリヤに関する物語の隠れた象徴性は預言者として生きることについて重要な教えではないかと思います。(2013年7月21日証詞より)
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