戻る
    
私たちの信仰告白(マルコ8:27-9:1)
今日は私たちの信仰告白という題で考えてみたいと思います。信仰告白と申しますと大変硬いイメージがありますが、その理由は使徒信条やニケア信条、他にもいろいろとありまして、キリスト教の信仰を神学的に集約したドグマとしてのことが思い出されるからです。今日はそのような意味での信仰告白ではなく、キリスト教における最初の信仰告白といえるペトロの告白を通して、今の時代における私たちの信仰告白について考えてみたいと思います。
 今日の聖書は三つの部分に分かれています。最初は27節から30節までのところでペトロのメシア告白が書かれています。しかしマルコによる福音書における信仰告白は続く九章一節まで読んだ方がより正確な理解が出来そうな気がします。次は33節までのイエスの受難予告、そして最後に9章1節までのイエスの弟子として生きる、又はキリスト者として歩むことはどのようなことかについて書かれています。以下ではこれらに従って三つのことについて考えてみたいと思います。
 先ず、ペトロのメシア告白ですが、ある日弟子たちとイエスが道を歩いていた時に「人々はわたしのことを何者だといっているのか」と尋ねる場面で始まっています。それに対し弟子たちは人々がイエスを「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」と言っていると答えます。イエスはさらに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに尋ねます。他人の考えではなく「あなたは」と尋ねるイエスのこの問いかけは大変重要な意味を持ちます。その時に誰より早く「あなたはメシアです」と答えたのがペトロでした。ペトロのこの告白はキリスト者の根本となるものです。マタイによる福音書(16:16)にも、ルカによる福音書(9:20)にもほぼ同じ内容が書かれています。ただ細かく見てみますとマタイ、マルコ、ルカの告白は、それぞれ異なる時に、異なる場所で、異なる共同体として状況設定されていることを見逃してはなりません。従いまして信仰告白とは普遍的であると同時に、時と場所と共同体等によって異なる意味や内容をも持っていると考えた方が良いと思います。こういったことからペトロの告白というものも本人がその内容を本当に理解していたかを問う必要性が生じます。
 それでは先ずこの告白が出て来る背景について検討してみたいと思います。二七節を読みますとイエスと弟子たちはフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになったと書かれています。聖書の付録の地図を見ますと、この町はガリラヤ湖の北側に位置し、町の北部にはヨルダン川の水源であるヘルモンという山があります。ですからそこはガリラヤ地方の最北端と考えてもいいところです。このことが意味するのはイエスの活動がパレスチナの最北端まで至ったということです。同時にターニングポイントを意味します。この町まで来られたイエスはこれから真っすぐに南へ向かいます。即ちガリラヤでの活動をも終え、エルサレムへ向かうのです。イエスの活動の中間時点です。従いましてこの時、この場所でイエスが弟子たちにご自身を何者と思っているのかと尋ねたことは当然のことだったかも知れません。
 ここで百人町教会のことを考えてみることにします。3年前の2010年11月に創立40周年を迎えました。その時に『教会‘百人町’の風景』を出版しました。そして今度は『ろば』200号という重要な時期に来ております。今がターニングポイント、中間時点かは別として大切な節目であることは間違いありません。ですから「私たちが今の時代にキリストをどう告白するのか」が問われていると思い、それに応えるべき貴重なチャンスであると考えられます。こういった意味で今回の『ろば』200号を通して、私たちがこれまでにどのような信仰を告白して来たか、同時にこれからどのような信仰を告白して行こうとしているのかを確認しあうことは大変重要なことだと思います。
 それではペトロの「あなたはメシアです」といった告白は具体的に何を意味していたのでしょうか。ペトロは本当にイエスをメシアだと思っていたのでしょうか。ペトロが思っていたメシアとはどのような存在であったのでしょうか。もしかするとイエスとペトロが思っているメシア異なる存在であったかも知れません。このようなことを31節以下で確認することができます。ここでイエスは受難予告をします。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」この言葉はそれまでのイエスの教えとは異なる内容で、方向転換期におけるイエスご自身による大変重要な宣言です。これから向かわれるエルサレムへの道がご自身の苦難と死の道であることを弟子たちに告白し、教え始めるのです。即ちイエスのメシアとしての告白です。逆に弟子たちはイエスにメシアを告白されているのです。
 これに対してペトロはまだ理解できていません。32節の後半です。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」ペトロがどのようにイエスをいさめたのかは書かれていませんが、イエスが歩もうとする道を止めさせようとしているのです。このようなペテロの考えに対して再びイエスのはっきりした意思表明が33節以下に語られています。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
 これらの対話を読む限りペトロのメシア告白とイエスのメシアの告白との間にはずれが生じていることが分かります。このように今の時代における私たちがキリスト者としてイエスをキリストと告白することが、イエス・キリストの思いと全て一致すると判断するのは如何なるものでしょうか。ペトロのように「サタン、引き下がれ」とイエスに言われるかも知れません。
 それではイエスをメシア、キリストと告白することは何を意味するのかについて考えてみたいと思います。本来メシアとは当時のローマ帝国の植民地下におかれていたユダヤ人社会では最高の名誉となる呼称だったのですが、これについてペトロの信仰告白の直後の30節でイエスは「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」と言います。この時までイエスは世俗的な名誉を表す肩書として長老、祭司、律法学者のようなものは何にも持っていませんでした。同時にイエスはご自分がメシアだと公に言っていません。その上、ペトロのメシア告白も誰にも秘密にしておけと弟子たちを戒めるのです。
 反面、32節では自らの受難予告に対しては「そのことをはっきりとお話しになった」と書いてあります。このことは何を意味するのでしょうか。メシアの告白はその呼称ではなく生き方にあるということです。即ち、私たちが口で告白するからキリスト者であるのではなく、キリストが教えた生き方をしているからキリスト者であるということです。
 最後にイエスを生きることがどのようなことかを見てみたいと思います。34節以下ですが、ここは弟子たちと共に群衆にも、イエスをきることを教えます。中でも38節「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」と厳しい内容が書かれています。「神に背いたこの罪深い時代に」と具体的な状況が書いてあります。メシアの告白とイエスを生きることはこのように具体的な状況という前提の上に起っています。そして最後の9章1節でこのことが神の国への働きであることと、その働きに対する応答の緊急性が書かれています。
 今回『ろば』200号という重要な時点で、百人町教会の私たちは今の時代にキリストをどう告白するか、又イエスをどう生きるかが問われているのを前提に、共同体としてそれにどう応えるべきかを話しあい、それを具体化する作業を共同で行ないました。ある意味でこれらの内容は緊急性を持つことだと思います。ペトロの告白のように是と非の境目を自分たちが判断するのは困難なことと思いますが、神の国への小さき働きの中に入れて頂ければと願っております。
(2014年1月19日証詞より)
戻る