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      剣のない者は買いなさい
(ルカ22:35-38)
 今日から受難週が始まります。そして、礼拝後には百人町教会の総会が予定されています。もう一つ、明日14日は木田献一先生が亡くなられて1年となります。このようなことを一緒に覚えながら今日の聖書を読むことに致しました。
 先ず、今日の聖書は逮捕される直前のイエスの最後の説教の一部ですので受難週に相応しい箇所です。そして、只今その生涯を終えようとするイエスの最後の説教はイエスの生涯の決算でもありますし、同時に剣を持ちなさいと話されたイエスの教えはイエス以後の弟子たちへの新しい生き方だと思いますので、1年間を決算し、新年度を計画する総会に相応しい言葉だと思います。
 そして、剣を持ちなさいという教えは、何となく木田先生の教えにも深く繋がっているのではないかと思います。例えば、主体性の喚起という教えにも、そしてこれまでのキリスト教の方向を正す預言者的姿勢にも似ているのではないかと思います。
 最初にお断りを申し上げたいのは、剣の解釈です。剣を持ちなさいと言われたから文字通りに私たちが剣を手に持って誰かを切っていくことを考えているのではないことです。イエスご自身は一度も剣を持っていませんでした。無論、キリスト教の歴史には沢山の剣が登場しますが、そうだとしてもこの聖句を言葉の通り剣そのものだと受け止めるのは少々乱暴な気がします。もし原始キリスト教時代からこれをそのまま受け止めてきましたら、今頃私たちも脇差や剣か銃を持って礼拝に来ているかもしれません。そうではないとしますと、剣という言葉が持象徴性を探るのが良いのではないかと思いました。
 先ず、剣と関連する聖書を二カ所読んでみたいと思います。
 実はルカによる福音書の今日の聖書は小見出しの下に並行箇所が何も書いてありませんのでルカ独自のものとしか考えられません。ルカ何故この説教の中にこの内容を取り入れたのかは大きな疑問ですが、今申し上げようとするルカによる福音書の同じく2249節以下の内容を見ますと、その関連性でここに挿入したのではないかと思っている人も多いようです。49節以下はイエスが逮捕される場面です。
 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。

 即ち、弟子たちのなかの一人が剣を持っていた。そして、その人がイエスを逮捕しに来た一人の耳を切り落としたという設定です。そういえばそうかなと思いながらも、それだけなのかと思いますと少々物足りない気が致します。

 次に、マタイによる福音書1034節です。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 この部分は福音書の一番古いQ資料ですのでルカがここからヒントを得たかも知れません。この聖句には逆説的な意味が強く働いているような気がします。即ち、剣といえば元々武器や武力、或は分裂や争いを意味します。しかし、同時にその裏にはそれと真逆の意図、即ち平和、しかも似非平和ではなく真の平和を求めているということです。そのため逆説ともいえるのです。
 安倍政権のレトリックの中にも似ているものがありますが、所謂「積極的平和」というものです。しかし、それはデタラメで、過去の戦争犯罪を誤摩化し、靖国神社参拝、集団的自衛権、原子炉や武器の輸出、特定秘密保護法どを制定し、これから憲法を改し平和憲法をなくそうとしています。驚いたことに先週、文部大臣が教育勅語の原本を発見したことと、その精神には間違いがないのでこれより大切にしていきたいという、教育勅語による抑圧の過去は何にもいわずに記者会見を開いて報告していましたが全くの似非平和主義です。これについては小池健治氏が「ろば」200号の文章で述べておられますが、その関連聖句も預言者エレミヤが辛辣に批判している内容として614節を引用しておられます。
彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、「平和、平和」と言う。
 木田先生の預言者の研究の大きな部分を占めているのも「正義」と「平和」のテーマです。『平和の黙示』の序文に以下のように書かれています。「平和とは決して単に戦いのない状態を意味しない。……権力による『平和』は、敗者の抑圧の上に成り立つのであるから『正義』にかなうものとは言えない。しかし、現実には、勝者が敗者の上に課す『秩序』が『平和』と呼ばれ、『正義』と呼ばれることがしばしばである。」(2頁)

 引用したいところは沢山ありますが、後は皆さんが直接お読みになってください。

 今日、この問題を考えますと日本を含め世界の多くのキリスト教が誤った方向へ歩んでいる気がします。ヨーロッパにおいてはキリスト教が衰退していると度々聞いております。しかし、盛んなところもありまして、アメリカをメインとするペンテコステ派は権力と妥協しつつ、預言者的立場を忘れている場合が多いと聞いております。ブッシュ政権の時の政治への関与からもよく見かけましたが、その内容はグローバリズムへの同調と個人主義の信仰です。即ち、現世での具体的な救いを求めているのです。世界の多くの人が貧富の格差によって苦しむ中、その構造的、社会的矛盾には目を向けないで信仰によって神の祝福が個人に与えられることを望むものです。祝福とは現実において富と力と名誉を持つ存在になることです。このような信仰はカトリックにも多く浸透しているようで、今年発表された教皇庁の文書の中でもフランチェスコ教皇が危惧しています。

 要するに現代のキリスト教の有り様が非常に危機的状況におかれていることです。ですから、今必要なのは預言者的判断力、即ち現代の危機に対する批判的判断が必要であることです。このことが今日の聖書が言おうとする「剣」のことではないかと思います。

 今日の聖書にもう一度戻ってみますと、35節と36節の間の状況が大きく変わっていることに気づきます。36節は「しかし、今は」という言葉で始まっています。弟子たちの派遣の時だけでなく(ルカ10:3-4)、イエス自身もエルサレムの入城の時には多くの人々から歓迎されていました。しかし、今はイエスの逮捕と苦難が待っています。即ち既存の宗教勢力と敵対関係におかれているわけです。これ以上弟子たちと一緒に居られない、ユダヤ人社会では犯罪者の集団となります。弟子たちは自分の身を自分が守らなければならない状況になります。そのため財布も袋も履物も必要となります。それは弟子たちの自立の道です。しかし、財布や袋や履物は弟子だけでなく誰もこの世を生きるためには同じものが必要だと思います。そ意味で、ここで「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と言える程まで必要な剣とは一体何でしょうか。これに応えるように弟子の一人が「剣なら二振り持っています」という場面もありますが、本当に剣なのでしょうか。

 ルカによる福音書の著者であるルカは使徒言行録の著者でもありますが、イエス以後の弟子たちが剣を持っていたという話はどこにも出ていません。それに剣とは一般の人が持つ物でもありません。ローマの支配の下にあるエルサレムでこのような剣を持って歩くのは危険分子として命まで危なくなるはずです。当時のユダヤ社会にはシカリというグループがあり、暗殺のために剣などを隠して持って歩いたと言われていますが、イエスの集団とは関係がない話です。
 ここから想像したいのは弟子たちに勧めた剣が象徴するのは現代の私たちキリスト者にも必要な何かということだと思います。それは何かということです。キリスト者は高い精神や倫理的な誠実さを持っていると言われています。或は預言者的判断や批判能力、それに伴う行動力かも知れません。この応えは皆さんお一人お一人が聖書を通して、或は祈りを通して、ご自分に相応しい何かを発見することかも知れません。新しく始まる新年度の皆さんの信仰の歩みのなかで、是非皆さんの剣をお持ちになりますように祈ります。2014413日証詞より)
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