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      共食・境界=共会 (マタイ9:9-13)
 百人町教会では創立早々から礼拝の中で食事を一緒に摂って来ました。しかしこれを聖餐に代わるものとして考えたことも、愛餐という格式高い言葉をも使ったことがないのではないかと思います。礼拝式文には現在でも「昼食」と書いているのみです。にもかかわらずユダヤ教やキリスト教、さらに人類の歴史を辿って見れば、人々が営んで来た共同食事(以下・共食)や宗教的共食、例えばキリスト教の聖餐と切り離せない深い関連性があることも事実です。今日はこのような観点から聖書に書かれている「食事会」の意味合いについて考えてみたいと思います。
 「共食」とは聖書では簡単に「食事」という言葉も使っていますが、「宴会」という言葉も使われ、時には「祝宴」という言葉も使われています。逆に「聖餐」や「愛餐」という言葉は出てきません。他にも探せばあてはまる言葉があると思います。百人町教会ではこれまで礼拝の中での「昼食」の定義をして来たとは思いません。イスラエル民族の旧約聖書における過越の祭りの食事会、或はキリスト教の礼拝伝統における聖餐式には記念の意味を含め、食事会の定義がありますが、その他一般の食事会には決められた定義というものはありません。しかし全くないのではありません。実は殆どの食事会には深い共通点が常にあるということです。こう申しますと食事は生きるためではないかと思われる方もおられると思いますが、少なくとも「共食」という場合はそれなりの意味があると思います。家族が一緒にとる食事でもその全てが「共食」であるとは限りません。例えば一言の会話もない場合です。

 従いまして今日、考えてみようとする聖書の食事会を本日の題としてつけました二つのキーワード、「共食」と「境界」という概念を使って説明したいと思います。これらの概念や説明は私自身の持論ではなく、1983年に亡くなった英国の人類学者ヴィクター・ターナーの考えを借りたものです。ターナーの著書は日本語訳も3冊ほどありますが、私が持っている本は『象徴と社会』(1974)、もう1冊は『儀礼の過程』(1969)という本です。今日借りた「共食」と「境界」という概念は、『象徴と社会』にまとめられたもので、ターナーがラテン語の概念「コミュニタス」(共同性、共同体とも訳される)を取り上げ、それを解くために使われたものであります。

 今日は、これらの概念を借りて聖書の中の食事会の意味について理解し、同時に百人町教会の昼食の意味をも確認してみたいと思います。

 先ず、日本の伝統の中にも「共食」というものがあります。今でも地方の神社では年間何回かお祭りがあり、その中で欠かさず含まれるのが神様との共食をすることです。聖書でもお祭りとはこのような神との「共食」の時でもあります。そして、この「共食」とはコミュニティー、村共同体を維持し守るのにとても重要な働きをするのは確かなことと思います。このように「共食」とコミュニティーとはどの共同体においても決して欠かせない関係であることを先ず考えておきたいと思います。

 次に「境界」のことを考えてみたいと思います。ここでいう「境界」とは「線」ではなく「界」として考えて頂きたいです。絵で描きますと、例えば○(まる)を二つ描いたとき、両方の○を少し重ねた場合発生する共通部分を「境界」と理解して下さい。このことを共同体と連関して考えた場合、共同体を維持し、成長させるのに最も大事な部分がこの境界をなすところです。共同体といった場合、小さくは友達、恋人、夫婦、家族を含めて、大きくは国家、人類、宇宙まで広げて考えることができると思います。少なくとも二人以上の関係を共同体といえると思います。そうしますと恋人や夫婦の間でもこの「境界」という部分が存在するということです。結婚式の誓約のように夫婦になると一体一心となるということはあり得ません。○を重なる部分が生じるのです。これが時にはくっ付いたり、離れたり、重なる部分を多くしたり、小さくしたりします。そしてこの「境界」ではいろいろなことが起きると思います。

 この「境界」には非常に豊かな意味合いがあります。例えば二つの○を恋人同士、或は夫婦と考えてみましょう。互いは異なる性格や考え方を持っていると思います。そのぶつかり合うところで自分を主張し、自分の考えを守ろうとすれば決して二人の間に「境界」は形成されないと思います。ある部分で自分を譲歩、変化させ、ある部分で相手を認め、受け入れるならば、その「境界」では常に共通する新しいものが生れるようになります。これが国と国との関係の場合では境界において異なる文化が交流し、新しい文化が生れて来ると思います。かつて貿易港として栄えた堺市、あらゆる文化が交流し、新しい文化が形成されます。堺市の堺も境界と同意です。その堺出身の有名人といえば千利休です。彼が創った茶の文化、特に茶室には如何に偉い人でも刀を腰から抜き、頭を下げて茶室に入ります。象徴的な「境界」だと思います。

 日本は島国ですのでどの隣国とも地境を接していません。今回安倍政権が集団的自衛権を現実化しようとしていますが、もし問題になっている尖閣諸島などの地域を日本と周辺諸国との「境界」として有効に使えることが出来れば、きっと地域平和と新しい文化が形成される豊かな空間となるでしょう。

 飛躍になりますがイスラエルの民が出エジプトして40年間放浪した荒れ野はこの「境界」に当たるところだと考えております。この荒れ野ではこれまでの奴隷根性を払い落とすことを始め、エジプトのファラオに忠誠を行なったものから、ヤハウェ神と共に生きることを学びます。そして、奴隷として互いに牽制と競争、或いは無関係な存在として生きて来た彼らが一つの民族として生まれ変わるのもこの荒れ野です。

 礼拝そのものも「境界」をなすものだと思います。そして以前からの考えですが、教会は境界と読み方が一緒ですが、権威的なニュアンスの教える「教会」より、神の前で共に生きる「共会」の方が良いのではないかと思っているところもあります(十字軍のような「協会」を考える方もおられる)。

 このように「共食」と「境界」とは決して離せない連関性を持ちます。人と人を共同体に結びつける時間と空間を作ってくれるのが「共食」であることです。そしてそれを度重ねることで「境界」が成長します。

 聖書の「共食」ですが先ず、「放蕩息子」のたとえ(ルカ15:11-31)の中で家に戻って来た息子と親との和解の食事が用意されます。イエスの復活後のエマオの途上で弟子たちとパンを分かち合った時(ルカ24:13-35)と、ティベリア湖畔で復活したイエスが弟子たちと食事を共にした時(ヨハネ21:1-14)には関係の回復が起きます。本日の聖書はマタイという徴税人を弟子とし、その家で他の罪人といわれた人々と一緒に食事をする場面です。もう一ヵ所、ルカによる福音書14章12節以下には、「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。・・・むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」という言葉があります。これらの聖書はまさにターナーがいう「共食」の意味合いと重なるところです。

 今の社会においてこのような「境界」が多くあってほしいです。例えば、福祉施設が隔離場所のようになっていますが、本来は社会における真の「共食」ができる「境界」の役割を担う空間であるべきです。障がい者と健常者が、老人と若者が、貧者と富者が、弱者と強者が共に支え合い、交わり、分ち合い、譲り合う働きが福祉だと思います。ターナーはこの「コミュニタス」を形成する働きを「自発的な貧困」といいます。互いに自分を譲り合うことです。これらのことが「共食」や「境界」が持つ意味であり、「コミュニタス」、即ち共同体はこれによって維持され成長するということです。ターナーは「コミュニタス」ではルールや合理性は存在しない、あるがままで良いところだといいます。

 教会は神と「共食」する共同体です。そこには赦しと和解と励まし、支え、祈り合うのが含まれているはずです。この頃の教団の問題を考えますと聖書の「共食」や「境界」の意味を再確認し、この時代に相応しい新しいキリスト教文化を形成していかなければなりません。(2014年6月29日証詞より)
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