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      皇帝への税金と律法(ルカ20:20-26)
 去る11月21日(金)、安倍政権が衆議院を解散し、12月14日衆議院選挙が行われることになりました。安倍政権になってからこの2年間、アベノミクスという経済政策を始め、消費税の増税の問題、特定秘密保護法の制定、集団的自衛権の閣議決定、原発の再稼動の問題、中国と韓国との関係の悪化、沖縄の基地移転問題など、盛り沢山のことがありましたが、どれも未解決のまま今回の衆議院解散と選挙に踏み切ったわけです。今後4年間の安倍政権、或いは自民党政権の狙いがマスコミではほぼ取り上げられていませんが、安倍さんが求めている憲法改正を視野に入れてのものと推測する人も大勢います。

 今日の聖書の話はこのような重要な時期に必要な教えではないかと思いまして選びました。題のように「皇帝への税金」と「律法」の二つの側面から考えてみることにしました。

 まず、題は22節からの引用で「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」この言葉が今日の箇所の中心的な内容だと考えております。

 簡単に聖書的背景の説明から話を始めたいと思います。この部分はイエスがエルサレムへ入られてからの話で、エルサレムでのイエスの活動はすぐ前の19章28節から始まっています。そしていよいよイエスを捕え、殺そうとする人々による口実探しが始まり、その流れの中で回し者による仕掛け罠としてイエスへの問いかけが今日の内容です。ここで回し者、すなわちスパイを送った側の人々は誰であったのかを見てみますと、20節には極めて簡単に「そこで、機会をねらっていた彼らは」としか書かれておりません。ここの彼らが誰であるかは19章45節以下にその答えがあります。イエスがエルサレムに入られ、最初の行為として神殿から商人を追い出す話で、エルサレムの特権層が驚き騒ぐ内容が書かれているところです。その47、48節を見てみますと、「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」ここに「祭司長」、「律法学者」、「民の指導者たち」という集団がイエスを殺そうと謀っていたと書かれています。ここでの民衆の指導者とは長老、あるいは当時の議会である「サンへドリン」の議員をいうのではないかと注解書に説明されています。それにマタイの平行箇所には「ヘロデ派の人々」とも書かれています。いずれにせよ、これらの人々の全ては当時の既得権層で、政治や経済、社会や宗教の面で特権を持ち各々の立場から秩序を保とうとしていた人々であることです。面白いことはこれらの人々は互いに対立する立場でもありましたが、イエスを殺そうとする目的で心を一つにしているところです。

 しかし、回し者の仕掛けた問いに対してイエスの答えは明快というべきものではないと思います。24、25節です。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 この後に続く箇所には人々がこの答えに非常に驚いたと書かれていますが、普通に読む限りでは答えとして曖昧な、はっきりしていないように見えます。ただ、危機の場を上手に抜け出したことと、その上にこの対立する派閥の人々をそれぞれの立場に返す、別のいい方をしますと分裂させるのには十分な、知恵に優れた答えだったと思います。しかし、イエスの本当の答えを聞いてみたいですね。

 ここでこれらの内容についてもう少し具体的に検討してみたいと思います。この個所の中心である22節は皇帝への税金が律法行為に適うかとの問いですが、ここは先ほど申しましたように二つのテーマがあります。一つは「皇帝への税金」です。もう一つは「律法」についてです。ただ、この問いとはどのような内容であるか以前に、この問いがイエスとどういう関係であるのかが第一の疑問です。この問いが言葉のあやのようで、イエスを捕え殺せるのかというのも疑問です。しかし、これこそがイエスが置かれている現実であり、当時のパレスチナの被支配階層である貧しく弱いユダヤ人を政治・経済の面から、宗教や社会の面から厳しく支配していた重要なテーマであったことです。皇帝への税金とは政治・経済的現実であり、律法とは宗教・社会的現実であります。イエスもその中のお一人でした。

 先ず、皇帝への税金とは当時の民衆には何のメリットもないものを指します。その逆で民衆を抑圧する費用として使われていました。ローマ軍の駐屯に伴う維持・管理の費用、総督やローマの貴族を助ける資本として使われ、被支配地域には何の恵沢もありません。いわゆる疎外現象が起きていたのです。

 もう一つは律法の問題ですが、神とイスラエル民との間に交わされた契約である律法が一部の人々の専有物となり、そのため同じ民族に宗教的階級制度が敷かれ、特に貧しく弱い人を抑圧する制度に転落してしまったことです。ここでも疎外現象が起きていたのです。このような現実の中での問いかけでした。民衆は二重・三重の苦しみの中で生きなければならない状況でした。この点からもこの問いはイエスを含む当時の民衆における実存と深くかかわる問題だったと考えられます。

 更に申しますと、この内容と同じレトリックをイエスも使っていますが、すぐ前の20章1節から8節までの内容です。人々が神殿から商人を追い出したイエスに「何の権威で、誰に与えられた権威でそのような行動に出たのか。」と尋ねます。それに対してイエスは4節で「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」と逆に問いをかけます。面白いのは6節に彼らは答えを間違えると民衆に石で殺されるだろうと思い答えるのを避けたと書かれていることです。このことは二箇所どちらにしても命懸けの言葉のバトルのように状況設定がされていることです。この時にもイエスははっきりと答えませんでしたので結局これらのバトルでは両方が引き分け、生き残ったわけです。

 ここに「権威」という言葉が使われていますが、この言葉に重要なヒントがあると考えられます。この「権威」とは相互が主体的に認め合うものです。しかし、この権威に強制が介入した場合は主義という言葉が付けられます。個人的なことを含め、集団的にもナチズム、ファシズム、韓国の軍部独裁、中国の共産党独裁などは権威(全体)主義といいます。同じく律法に主義が付けられますとやはり権威主義へ変わります。律法主義というのは権威主義の一種です。これらの特徴には今申し上げましたように強制する性格があります。もう一つの特徴はその内容が誰を守るためかという問題です。例えば憲法であれば本来は権力から人民を護るためのものでありますが、これが権力を護る形になりますと権威主義化します。律法についても同じです。律法も本来は神以外のあらゆる権力から人を護るためのものです。イエスは律法をそのように理解しました。マルコによる福音書2章28節の「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」という言葉はまさにこのことについて教えているのです。この意味でイエスは律法を否定したわけではありません。その権威主義と闘ったのです。

 権威主義化によって当時の皇帝への税金とは権力に使われるもの、律法とは宗教的特権層に使われるものとなったわけです。同じく憲法や制度が権威主義化しますと大多数の民衆を抑圧し、疎外するようになり、一部の権力や特権階級の専有物に成りかねません。

 また、新自由主義、新保守主義という政治・経済政策も権威主義の一つに成りかねません。新自由主義政策の中では階級化が進みます。安倍政権がこれまで行ってきた行動を始め、これからやろうとする憲法改正や経済政策への殆どの動きは、国家権力や特権層を守るための新自由・保守主義の立場を取り、右記のような権威主義に当たります。一部の人に有利な規制緩和や経団連の政治献金の再開や法人税の引き下げなど、また日銀の金融介入による円安、株価の上昇は決して庶民生活を助けるものではなく、逆にこれまでの全国民中産階級だと言われてきた日本経済を大企業や富裕層を中心に再配分することによって階級・権威主義社会へ向かわせようとしているのです。今回の選挙はこのような観点から読み取る必要があると思います。
(2014年11月23日証詞より)
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