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      貧困と正義(アモス8:4-9)
 トマ・ピケティという名前の人をお聞きになったと思います。フランスの経済学者で、『21世紀の資本』(みすず書房、2014)という本で一躍有名になった人です。世界の格差問題を研究している人ですが、彼はつい最近、来日しまして日本の経済的不平等が今後深刻な問題になると話しました。
 それと何度か証詞の中で取り上げたことがありますが、ローマ教皇フランシスコの『使徒的勧告・福音の喜び』(カトリック中央協議会、2014)の相当の部分が、福音の個人化を憂慮し、経済的不平等の問題や貧困の問題の克服への勧告を取り上げていることです。一例として、今世界にはすべての人が食べても余るほど食糧があるのに飢えて死ぬ人が大勢いるという分配の問題を指摘しています。

 レオナルド・ボフというブラジルのカトリックの司祭がいます。この人は1970年代以来南米の「貧困」問題にずっと取り組んでこられた解放神学者です。その著書『アシジの貧者・解放の神学』(エンデルレ書店、1985)の中で彼は「貧困の反対は富ではなく、正義である」といいます。貧困の問題が起きるのは正義の欠如であるという考え方です。

 このように経済的不平等が全世界的に大きなテーマになっていますが、トマ・ピケティ氏はいつの時代も格差はあって、過去には もっと大きな格差があったともいいます。しかし、今問題になっているのは制度的に、或いは意図的にその問題が起きているということです。別のいい方をしますとコントロール出来る問題であると考えているのです。

 この経済的不平等の問題に対して皆さんの考え方も色々と異なると思いますが、聖書にも貧困について少なからず取り上げられているので、どう語っているのかについてざっくばらんに考えてみたいと思います。

 聖書の貧困との関連箇所は、日本語の聖書なら「貧しい」と検索しますと、約150箇所が出ます。実際はこれより何倍も多くあると思います。例えば、弱い、苦しみ、悩むなどの言葉は多くの場合に困窮や窮乏と何らかの関係がある言葉です。また翻訳時に同じ言葉を繰り返さないという文学的な意図もあり別の言葉に変えられた場合も少なくないと思います。これらの関連箇所を調べていきますと幾つかの考え方に分かれているのが分かります。

 まず、貧困は自業自得という伝統的な考え方です。特にこの意識は箴言の幾つかの箇所に集中して出ています。6章6節から11節の1箇所だけ引用します。

「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみしばらく手をこまぬいて、また横になる。貧乏は盗賊のように欠乏は盾を持つ者のように襲う。」

 無論、怠け者には当然貧困が付きまとうはずですが、これも豊かな父母に出会えば一生何にもしなくても贅沢に暮らせるのは当然なことです。トマ・ピケティ氏は「世襲資本主義」という言葉を使っていますが、相続税をなくそうとするのがアメリカのブッシュ政権での一政策であったようです。日本の安倍政権も生きている間に子どもや孫に相続をする道を、税制を含めて考えているようです。働かなくても財産の増殖が格段と出来る今の時代、制度的にも支えられ益々貧富の格差は広がって行くのが見え見えです。そして、怠けている人もいると思いますが、働きたくても働ける場がなく、職を得られない人が大勢いるのが現実です。企業は利益を設備投資や雇用や労働者賃金へ回さないで、合理化という名目でリストラや非正規雇用や賃金の削減を行ない、投資家へ優先的に配分する仕組みになっているのです。
 次は、貧困と格差は社会の中で共存するのが当然であるという考え方です。そのために慈善という善なる行為が認められています。それによって貧しい者が助けられ、富める者も救いが得られという考え方です。
 この考え方はマタイによる福音書25章に裁きの時に羊の群れと山羊の群れに分けられる話がありますが、どちらの善なる行為も貧困や格差を前提にした話です。二つの群れの違いとは同情論と保護論に分けられると思います。旧約聖書の律法や預言の多くの部分は保護論に属します。弱い者、貧しい者、病人、女性や子供、異邦人などなどに対する神の保護令です。この場合保護は義務となり責任となります。弱者側は権利となります。同情論には義務も責任も権利もありません。山羊の群れは同情論に近く、羊の群れは保護論に近い話です。飢えや渇いている人に対する同情論には責任や義務もありません。

 三つ目は、貧困をもたらす社会構造、あるいは格差をもたらす原因があるという考え方です。そしてそれを是正したいという考え方です。アモス書は正にこのように貧困の問題を多く取り上げている聖書です。今日の聖書はアモスの預言の後半部に当たります。預言の対象は4節で示しているように、「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ苦しむ農民を押さえつける者たちよ。」とは貧しい者を苦しめる者への裁きの預言です。その行為が具体的に書いてあります。5節の後半と6節です。「升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろうというのは人身売買です。奴隷商人のような感じです。無論自ら使う場合もありますが転売も考えられないわけでもありません。ここで4節と6節に貧しい者という表現が2度出ています。4節に「苦しむ農民」というところの苦しみは貧しい故にという意味です。6節に「弱い者を金で」というところも困窮の故にという意味です。ですから、この短い文章の中に貧しい、窮乏という言葉が4度も出ているのです。これだけではありません。アモス書は祭儀批判のように見えますが、実は貧困の問題がメインのようで今日の聖書以外にも2章6節と7節、4章1節に、5章12節などアモス書全体を通して取り上げられています。

 このようにアモス書は貧困の問題を多く取り上げているのです。アモスの預言は北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅びる寸前の社会状況で語られたものです。どれほど社会が腐敗していたのか。時代末期症状的現象、特に正義が否定され、踏みにじられている社会であったように見えます。

 実はアモス書にはもう一つ気になるところがあります。2章6節の後半の「彼らが正しい者を金で貧しい者を靴一足の値で売ったからだ」と、5章12節の後半の「お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。」というところですが、よく見ますと貧しい者が正しい者であるような表現に見えます。この内容をどう理解すればよいか迷いますが、正義が否定される環境のもとでは、正しく生きようとする人々が貧困に陥るのは無論、その存在すらも否定されてしまう話ではないかと思います。

 福音書のイエスの譬えにも経済不平等の問題を取り上げているような箇所があります。マタイによる福音書20章1節から26節のぶどう園で働いている労働者たちの賃金払いの話です。ここでは働き場と1日の生活に必要な賃金の保証が語られています。経済において完全なる平等は不可能だと思います。しかし、社会の健全化政策の中にはスタートラインの平等性の課題があります。働きたい人のための雇用の確保、基本的生存権のための最低賃金制度、国民皆医療保険制度や義務教育制度などは国家政策として護られています。今、これらのスタートラインにも異常現象が起こりつつあります。

 世界中に経済的不平等の問題がインフルエンザのように広がっています。しかも急病で難病であるようです。日本でも1億総中産層という考え方や勝ち組や負け組などの言葉がいつの間にか消えています。そして、今は貧困という言葉を多くの人が語るようになりました。誰がこの病気を治せるのでしょうか。無論、国家政策の正しい方向への是正が最も必要です。しかしそれだけでは駄目なようです。聖書が歴史や文学と異なるのは過去の記憶ではなく、未来への出発点であることです。預言者の宗教、特にキリスト教の教えは未来への働きかけであります。前八世紀の預言者アモスの善き判断と告発は、今こそ私たちキリスト者が最も必要とするものではないかと思います。 (2015年2月1日証詞より)
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