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      共同体の記憶(ルカによる福音書8:9‐10) 

 今年八月で戦後70年を迎えます。節目ということで安倍総理はこれまでの歴代首相とは異なる談話文を準備しているようですが、特に過去における戦争責任についての内容が注目されています。安倍さんの普段言っている考え方を盛り込めば歴史修正主義の立場をとると思います。冒頭にこのことを申しあげますのは今日お話したい内容が記憶の問題で、殊に共同体の記憶に関連する話であるためです。ご存知の通り、靖国の記憶は過去の戦争がお国のために正しいことであったという考え方一色です。親族の中にA級戦犯がいる安倍さんはこの靖国的立場に立っています。
 一方、朝鮮半島のことですが、今日は3・1節といいまして、1919年3月1日に日本の植民地支配から独立を願って起きた、非暴力運動の記念日です。この日に始まった運動は全国に広がりましたが、当時日本は憲兵政治、即ち武断政治を行っていましたので、多くの人々が軍と警察によって殺され、逮捕され、拷問を受けることになります。これも朝鮮の共同体の記憶です。このような共同体の記憶は中国にもあります。これらの記憶を如何に共有できるかによってアジア、さらには人類の平和が守られると思います。しかし、戦後70年も経った今でもこのような記憶の共有が少しもできていません。今、安倍さんがやろうとするのは記憶の共有とは真逆の方向へ向かわせるものです。以前、百人町教会では3月の今日の日と8月の終戦記念日に近い礼拝で「ヨベルの基金」の為に献金をしていましたが、それは記憶を共有することであったと理解しております。このようなことを考えますと記憶とは単に過去に終わっているものではなく現在、あるいは未来へ連なるものであります。
 ご存知のようにキリスト教という共同体というのは一つにまとまっているものではありません。いろいろな宗派や教理や信仰の内容が異なり、それによって分裂が起き、これで同じ神様を信じているといえるのか疑問を抱くほどです。そのためキリスト教の歴史も自らの正しさを主張しあい、排除しあい、さらには殺しあう歴史だったのです。皆さんの信仰の内容や神理解も同じだとは思ったことがありません。どうして記憶の違いが起きるのでしょうか。神様はお一人、イエス・キリストもお一人、聖霊もお一人、しかもこの3者を一つにまで束ねたのが三位一体の教理ですのでキリスト教は非常に強力な一体感を持つ宗教であるはずなのにどうしてでしょうか。
 私たちは聖書をキリスト教共同体の記憶であると前提して考えております。その聖書の記憶とはどのようなものであるかについて以下で簡略に考えてみたいと思います。
 まず、聖書が共同体の記憶だということは、個人の記憶ではないということです。例えば、モーセやイエスという人物の個人の記憶ではないということです。旧約聖書でしたらユダヤ教共同体の記憶であり、新約聖書でしたら原始キリスト教共同体の記憶であります。例えば、福音書の形成には共同体の記憶としてまとめるに当たって選別作業が最終的に行われます。皆さんがご存知のように『トマスによる福音書』というものがありますが、これはグノーシス主義者によるものだと判断し、原始キリスト教団が選ばなかった福音書です。他にも多くの福音書がありましたがその一つ一つの中身を確認しながら編纂者らが選んだわけです。これらの選択作業の中に、もしもの不純な動機が入り込みますと歴史修正主義のような結果となるのです。戦時中ナチスがユダヤ人の虐殺とともに旧約聖書を否定しました。日本も植民地支配下の朝鮮で出エジプト記やエステル記のようなものを読めないように墨を塗ったりしました。
 ここで個の記憶が共同体の記憶へ移行するプロセスについて考えてみることにします。福音書の一つ一つの物語には大勢の群衆が関わっています。大体の場合は群衆らがイエスの噂を聞いて遠近各地から訪ねてくる話から始まっています。群衆の一人一人はバラバラで、何一つ繋がりを持っていません。病人や障害者、老人、女、子供、外国人までのあらゆる人々が個人的な思いを持って集まってくるのです。群衆は共同体というより烏合の衆というべき各々の悩みを抱えてイエスの前に集まってきました。自分のことで人の痛みや人への思いやりなど考える余裕がありませんでした。この辺までは個人の記憶というべきだと思います。しかし、旧約聖書はこのような個人の記憶より、多くの場合共同体の記憶から始まっています。旧約聖書と新約聖書の大きな違いはこのような出発点にあるのではないかと思います。旧約聖書が初めから共同体の記憶で始まっているのに対し、新約聖書は個から始まり共同体の記憶へのプロセスが見えるように書かれていると言うほうが正しいかもしれません。例えば、日本の古事記や日本書紀は民衆の個という発想は全くなく最初から天皇という権力機関が前提となりまとめられた神話です。今の安倍さんの発想の原点もここにあります。これは普遍的な考え方にはなりません。宗教としてのユダヤ教を見ても同様です。世界宗教にはなりませんでした。現在でもユダヤ人のみの宗教です。このような共同体の記憶は普遍より地域、民族、言語的共同体の記憶に止まり、狭い意味の共同体記憶となるのです。しかし、キリスト教の原点には個人の記憶から始まってはいるが、それを乗り越えて共同体の記憶へ結びつくプロセスがあります。
 それでは個の記憶から共同体への記憶のプロセスはどのようなものであるか福音書からその過程を観察してみたいと思います。福音書には多くの物語があります。それらはある事件性と関わりを持っています。記憶の共有とはその事件の証言者か傍観者かの問題です。病を癒すように見えても、それにはあなたの信仰があなたを治したというそれまで一度も思わなかった考え方が挿入されています。そして、その場には安息日を守るのかどうか、涜神行為はないのかどうかの監視のもとに敢えて異なる考え方との対立を見せます。結局それらが積み重なりイエスの十字架の死へ至る内容となるのです。そして、それらの物語には個がよく見えます。手が萎えた人、12年間出血が止まらなかった女性、悪霊に取り憑かれた人、死にかけた人、中風の患者、盲人、子供、罪人、外国人と言われた人などなどあらゆる人々が登場します。笑う姿、喜ぶ姿、驚く姿、恐れている姿、悲しむ姿、大声で叫ぶ姿、彼らの協力し合う姿、時には沈黙の姿も見えます。実はその一人一人が証言者となったのです。そのプロセスには初め個人として自分の悩みを持ち込んだ人らがイエスと出会います。イエスは彼らの表面だけでなく、内面の世界まで、例えばあなたの信仰があなたを癒したということを通して、深い出会いと交わりを成立させます。ここで個人の記憶は二人の記憶、すなわち共同体の記憶に劇的に変わるのです。
 マルコによる福音書5章21節から35節のイエスの服に触れる女の話がそれです。この出来事から人々は自らの痛みと悩みを共にしたイエスの証言者に変わっていくのです。片方では傍観者もいました。彼らは律法学者やファリサイ派の人やサンへドリンやヘロデ党の人です。彼らのほとんどは自らのことしか守ろうとしない既得権者でした。しかし、彼らの考えはまとまっていました。群衆を如何に利用するかのみで群衆らを一度も理解しようとしませんでした。自分たちの基準に合わせて罪人を多く作り出しました。彼らは罪人の生産工場でした。彼らはイエスをも如何なる罪を着せて殺せるのかを相談します。これは戦時中の非国民のことを思えば分かり易いと思います。記憶の出発点によって共同体の記憶も質的に変わっていくのです。靖国の記憶もその一つです。いつまでも自分と異なる存在を排除し、非国民とするしかないのです。本文は神の国の秘密を悟ることを願っているイエスの教えです。「彼らは見ても見えず、聞いても理解できない」と批判のように見えるこの言葉も同じ願いの言葉です。イエスの行い、教えをしっかりと見て、理解してほしいという願いが込められています。あの戦争を通して、見て聞いたものをどう受け止め、理解し、行えるかはとても大切です。それはあの経験を人類の遺産として記憶し、平和へ繋げることです。戦没者を靖国の英霊に祀ることより、その一人一人の痛みの記憶を共有することが最も大切です。聖書は私たちにその道を教えてくれるのです。(2015年3月1日証詞より)

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