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      戦争と難民(出エジプト記22:20-26) 

 今回初めて歌う讃美歌21の429番はとても素敵な讃美歌です。作詞作曲が日本の方で、歌詞は平和を祈る内容ですがとても具体的で、特に2番には「かつてわれらも・・・いのちと望みをふみにじった。」とあの戦争のことに触れているように読めるところがあります。心に深く通じる内容に出会いました。平和の道は記憶とも深く関連します。
 現在、ヨーロッパで大きなテーマになっているのはシリアからの難民の受け入れの問題です。難民の行列はシリアに近いヨルダンやトルコやイスラエルではなく、少し離れたギリシャでもなく、ハンガリーを素通りし、オーストリアを経て、遥々遠い国ドイツへ向かっています。どうしたのでしょうか。難民が既に百万人単位を超え難民収容所が飽和状態でいる、或いは受け入れ体制が整っていないためです。しかし、EU共同体が受け入れようとする難民の数は、限られていて全体難民のほんの一部に過ぎません。難民たちはこれからどうなるのでしょうか。紛争地域から遠く離れている日本や韓国政府は対岸の火事のように見ているのみですが、もしも自分たちの地域でこのようなことが起きたらどうなるのでしょうか。決して遠い地域の話でもなさそうです。例えば、いつか北朝鮮という国が困難な状況に陥った場合に、実際1990年代の自然災害による、無論政策の過ちも大きかったですが、多くの食料難民が発生しまして、中国や韓国へ流れ込みました。お国を離れるのが難民とすれば、そこには飢饉や戦争のみではなくいろいろな理由や目的が原因となると思います。例えば、出稼ぎや移民というのも言語を始め、ありとあらゆるところがそれまでの自分とは異なる環境となり、覚悟ができていてもそれらの制約が差別を生じさせるので難民同様の立場となります。3・11の福島原発事故による疎開、即ち国内難民ですらも差別が生じました。
 しかし、現在国内のマスコミでは難民問題を取り上げても、何故あれほど大勢の難民が発生しているのかについてはほとんど取り上げていません。シリアのアサド政権と反体制側との内戦状態、あるいはイラク・シリアのイスラム国(ISIS)の発生に伴う戦闘が難民発生の原因であるようにいうのみです。確かにそれらのことは一つの原因ではあると思いますが、やはりその背後にアメリカやロシアという大国の利害関係が関連しているのを社会学的にきちんと解説する必要があると考えております。
 
今回の難民の様子をじっと見ていますと、不思議なことに老人が見えません。ほとんどが若者、子連れの夫婦です。彼らは老いた親はお国に残しているか、難民収容所に残したまま来ているようです。それに越境するのにブローカーが多く存在し、ある程度の金を持っていないと海を渡れない状況だと言っていますので、貧しい人々も老人のように戦場に留まるか、戦闘に加担せざるを得ない状況になっているわけです。そして、これらの戦争によるこの地域での混乱状態、あるいは人々の生活状況などについてもほとんど報道されていません。
 戦争が拡大すると犠牲も多くなりますが、同時に武器の消費も拡大します。それは結局武器商人、生産者が儲かるシステムになっています。戦争地域の人々は武器や弾薬の生産手段はもっていない上に、そういったものは真っ先に破壊されますので、結局将来を担保にかけて、味方に成り済ました大国から武器を調達し、購入しなければならないのです。戦争に勝ったとしても、大勢の人命を失い、残るのは巨額の借金のみとなるのです。そのため国家主権の剥奪となり兼ねません。
 安倍さんが集団的自衛権と名乗って必死になっている安保関連法は大国の仲間に入りこのような商売が可能となり、その利権を得て日本の経済を活性化しようとするものです。自衛隊が戦場に行かなくても、武器商人になることは間接的に戦争に参加することで人殺しになることです。このようなことが積極的平和だとすれば全くの嘘に決まっているのです。讃美歌の歌詞のようにかつて日本が行なったいのちと望みを踏みにじることを再びするようになるのです。それによってまたもや犠牲者や難民が発生するようになるのです。どこが平和といえるでしょう。正義や平和といいながらも相手の困難を利用、犠牲にして自国の経済的利益を求めているシステムにすぎません。従いまして、難民の問題がどこから発生するのかをしっかりと見つめた上で、既に発生し行き場を求めている難民をどのように、どれほど受け入れるかを議論するのも先ずは重要ですが、それと同時に難民を発生させるシステムを問いただすことで、根本を修正して行かなければならないのです。
 今日の聖書の見出しには「人道的律法」と書かれています。もちろんこの見出しは現代に付けたものですので、そもそも人道的という概念が二千数百年前にはあったわけではありません。にもかかわらず現代におけるこのような思想を導き出してくれたのも確かにこのような聖句からだと思います。社会で最も弱い人々を保護するという意味でヒューマニズムの根幹であったとも思われます。このような意味で本文は本当に驚くべき内容です。他の地域からの流れ者のみではなく孤児や寡婦をも、さらには貧しい人々まで保護し、もしも彼らに害を与えたら神に殺されるという厳しい罰則まで記録されていることを見ますと、感嘆せざるを得ない律法の内容です。古代の律法もこのようでありますが、現代の日本国憲法の第3章に保障されている基本的人権は、普遍的な「人」ではなく「国(日本)民」の権利として定められています。即ち、国民以外の者には人としての権利が相当制約されているということです。イスラエルの民が古い昔このような法律を造ったとすれば、現代社会はその時よりずっと成長しているはずですが、今の憲法のままでは難民問題の議論もできないのが現状です。
 そもそも聖書にはどうしてこのような内容が律法の一部として取り上げられているのでしょうか。今日の本文は「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」とこのような言葉から始まっています。そしてこの言葉は数回繰り返されています。例えば次の23章9節にもあります。「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」この二つの言葉からは、この律法が造られた背景的なものが読み取れます。即ち、讃美歌でも歌われているように経験と記憶です。即ち、エジプトにおける経験と記憶、そして出エジプトにおける経験と記憶です。出エジプトのみの経験と記憶ではこのような律法は造れません。エジプトでイスラエル民の先祖が寄留者であった経験と記憶があってのことです。そして、イスラエル民はこの経験と記憶を再び味わいます。それがバビロン捕囚です。二度の経験と記憶、確かにイスラエルの民はバビロニアでも寄留者でした。この寄留者という言葉を使っていますが、寄留者とは今の言葉で言いますと「難民」の状況に置かれている人々です。バビロンの時は戦争による政治的難民でした。エジプトでは飢饉による移住と民族的差別による難民でした。この律法における寄留者、寡婦、孤児、貧しい人とは25、26節で見えるようにその日に限る生活をしている気がします。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。」皆同じ状況に置かれているとのことです。ただ、この律法にも限界があります。彼らのこのような日々の生活に追われている状況に対する保護は言っていますがそこから抜け出すための、例えば土地などを与える、このことは当時の人々が自立するために必要な基本条件ですが、当地の人と変わらない権利や義務が遂行できるまでを考慮するべきです。
 結論ですが、現在の欧州の難民問題は今世界が進めているグローバリゼーションによる結果のほんの一部です。貧困や難民の発生はその歪んだ政策によるものです。今、私たちは再び聖書の教えの前で謙虚になるべき時代を迎えています。世界各地で数多く起きている不幸な出来事から学び、自分たちの経験を記憶として受け入れ、新しい世界観や環境へと変えていくことができればと祈っております。(2015年9月20日証詞より)

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