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      「議員」と「徴税人の頭」(ルカによる福音書18:18-23、19:1-10) 
 
 今日の聖書は二つの個所を選びました。18章18節から23節までの「金持ちの議員」と見出しがついているところと、19章の1節から10節までの『「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ』と見出しがついているところです。この二つの個所をもってタイトルを『「議員」と「徴税人の頭」』とつけました。中でも徴税人の方は平ではなく頭で、二人はいわゆる高級官僚のような立場にあった人物と考えられます。そして二人とも金持ちだったと書かれています。この二箇所は一見、何の関連もなさそうに見えますが、何らかの関係性を持っているのではないかと聖書を読む中で気が付きましたので、これらのことをご一緒に考えたいと思います。
 実はこの二つの箇所の序文のように見える箇所がありまして、同じ18章9節から?節までの『「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ』と見出しが付いているところです。
?「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。?ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。?わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』?ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』? 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「議員=ファリサイ派の人」と「徴税人」の箇所に先行するこれらの内容は二者の関係を非常に対照的に説明しています。
 それでは二つのところをもう少し詳細に考えてみることにします。
 先ず、二人はどのような人物であったのかを見てみましょう。先ず、議員は非常に敬虔な人だったようです。人々から尊敬を受けていた人物のようでした。更に自らも律法のすべてを守っていると壮語しています。しかし、徴税人の頭は七節で「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と人々が噂しているところから、罪深い存在のように書かれていて、彼らは当時の権力者の下請け人で市民から税金を取っていたので憎まれる存在だったでしょう。私たちもそのような印象を強く持っています。
 この二人がイエスに会おうとしています。何を求めていたのでしょうか。
 先ず、議員は「永遠の命」を求めていました。これで彼はファリサイ派の人であることが分かるのですが、信仰者として永遠の命を求めるのは当たり前のことと思います。議員が既に社会的地位や名望も得て、信仰もまともな道を歩んでいたとすれば、その上物質的にも豊かな人であり、その結果自分がもう既に得たと思う「永遠の命」の確信をイエスに求めていたと考えられます。しかし、彼は議員という職責から永遠の命より自分の職務に関する求めが必要ではなかったのではないかと思うのはお節介でしょうか。例えば「議員として必要な判断力や勇気を得るためにはどうすればいいですか?」と求めたら…。
 次に徴税人の頭は何を求めていたのでしょうか。彼はひたすらイエスの姿を見たいという願いだけでした。それは叶えられました。そして、議員にはなかった職務に関する彼の告白は私たちを感動させるもので、これまで勝手に罪深い人として決めつけていた自分を後悔させます。八節の後半に、「また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と書かれている部分です。
 イエスとこの二人との出会いの結果は、議員には深い悲しみが、徴税人の頭には大喜びが与えられ極端に分かれています。
 もう一つ、聖書が残す良き結果の表し方として名前が記されています。徴税人の頭の方は「ザアカイ」と名前が記されていますが、議員のところにはその名前がありません。読者としても悲しくなります。
 ルカの編集意図は先ほどの一八章の九節を含む三つの文章から重要と思えるのは、やはり最後の徴税人の頭ザアカイの話でしょう。それぞれの文章の始めにある見出しの下の括弧のなかに平行箇所が書かれています。真ん中の議員の話にはありますが、序文と徴税人のところにはありませんので、ルカ独自のものとして、ルカが本当に言いたい内容はこの三つ目の話であると考えられます。
 ルカは一体これらの内容を通して何を話したかったのでしょうか。ご一緒に考えたいと思います。
 この二人の共通点の一つは「金持ち」であることです。要するに共通テーマは「永遠の命」ではなく、「金持ち」ということです。私たちが福音書を読む限り、イエスの周辺には大勢の群衆が集まっていますが、彼らはまともに仕事も得られず、食べ物も持ち歩けない人が多く、社会的弱者の話が多いので「福音書」よりも「貧乏物語」、例えば「マルコによる貧乏物語」とつけた方がふさわしいのではないかと思うほどです。だからこそ「金持ち」のテーマは大変重要なものと考えられます。関連するところを見てみましょう。
 先ず、議員のところを見てみます。18章22節です。
これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 次に、ザアカイです。19章8節です。
 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
 この二つの共通テーマが「金持ち」であることを申し上げましたが、「貧しい人」は隠された本当の共通テーマです。イエスが議員に求めた「持っているものをすべて売り払い貧しい人々に分けてやりなさい」と言われる中に貧しい人のことが語られていますが、徴税人の頭ザアカイは議員とは違って、イエスに求められる前に自ら「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」と貧しい人についての自らの責任について言及しています。
 議員と徴税人との間にどうしてこの違いが出たのでしょうか。どうして議員の方は言われてもできず、徴税人の方が言われなくても言えたのでしょうか。
 一つは、二人が普段何に関心を持っていたのかということです。議員は自分自身のこと、永遠の命には関心があったとしても、イエスには何の関心もありませんでした。しかし、徴税人の頭は自分よりイエスに関心がありました。ザアカイは普段からイエスの教えに関心を持っていたと考えられます。
 そしてもう一つ、職務に関することです。議員の方は自分のことばかりを守り、求める生き方で、そのためか職務には関心がなかったようです。なぜならば彼には貧しい人々のことが見えていないようです。今の安倍政権のように。このような生き方はいくら律法を堅く守ってきたとしても救いは遠いということです。しかし、ザアカイは徴税人として他人の台所の事情まで良く知っている職業の人です。このことは社会の動きが誰よりも良く見えて、判断できる人ということです。ですから貧しい人々のことが良く見えていたのだと思います。彼の職務に関して先ほど申し上げました。誰かから何かだまし取っていたら同倍でもなく、四倍にして返すという人に嘘があるでしょうか。彼の職務遂行がどれほど徹底されていたのかが伺われます。
 議員は人々から尊敬され、ザアカイは憎まれる存在でありました。この対照的な姿の中に隠れていることは大変重要なものです。今を生きる私たちに責任ある考え方や生き方がどうあるべきかを教えるものです。もう一つ徴税人は現場でその汚い仕事を権力機関に代わって行なっていました。当然風当たりが強くなります。それでも徴税人としてのザアカイのような生き方は、私たち教会やキリスト者にも示唆するところがあるように思えます。神の国の働きにも世間から憎まれることが時にはあるような気がします。教会とキリスト者は今の社会の中で神の国に属する公的存在であり、責任を持つ存在であります。今日の聖書はこのことを教えてくれる大切な内容だと思います。(2016年2月?日・信濃町教会にて講壇交換説教より)
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