戻る
      「主の祈り」・飢えと分配(ルカによる福音書12:13-21)

  「主の祈り」は私たちキリスト者にとっては長い歴史を持ち、覚えて来たとても大切な教えです。連続ではありませんが昨年の11月に始めてから5回目になります。今回の箇所はマタイによる福音書6章11節の祈り「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」です。この部分は「主の祈り」の丁度真ん中にあたる部分で、後半部が始まるところでもあります。前半部と比べ後半部の祈りは、「わたしたち」で始まる親密で具体的な祈りとなっています。 早速この祈りの部分を考えたいと思います。先ず、前回の「主の祈り」でも申し上げたことですが、「主の祈り」における祈りの主体は「わたし」ではなく「わたしたち」であると思っています。この「わたしたち」を形式的主語で認識することもできますが、ここでは複数形の主語を持つ共同の祈りとして考えたいと思います。例えば、今回の祈りを「わたしたち」ではなく『「わたし」の必要な糧を今日与えてください。」』と祈ったとしましょう。主語の違いによって内容も大きく異なっていくのではないかと思います。続く「主の祈り」を見ますと、「わたしたち」で始まっているのが分かります。
 このような理解から今回の「必要な糧」の部分を共同の祈りとして考えてみることにします。ここでの「必要な糧」とは「必要以上」の、或いは「必要以下」の量ではなく、「適量」もしくは「最小限」の糧のことを意味しているのではないかと思います。そのことは命を支えるための最小限に必要な糧として考えられます。そして、「今日与えてください」という内容から、蓄えることができるものではなく、その日に必要な量として考えられます(出エジプト記16章の「マナ」を参照)。福音書の内容からも、当時の人々には最小限の量の糧も得られていない様子が描かれています(マルコ6:30-44、8:1?10参照)。

 同時に「今日の必要な糧」が意味するのは「パン」だけではなく、もっと広い意味でその日を生きるために必要な他のものも含む象徴概念ではないかと思います。例えば、食べ物や飲み物、寝る場所や衣類、さらには働き場や働ける身体をも。即ち、人が「命」を維持するために必要な最小限のものの全てを象徴する言葉だと思っているのです。この祈りはその日の命を求めているものです。

 それでは「主の祈り」がどうして「わたしたち」の祈りでなければならないのかをここで考えたいと思います。この祈りがもしも「わたし」の祈りとして、自分の「パン」のみを求める祈りを意味するならば、もう既に「必要な糧」が十分満たされている人はこの祈りは必要としません。律法主義者のように完璧な律法実行者には赦し合いを求める祈りは要りません。従いまして、「主の祈り」は個人の幸せを求めているような祈りではないと思います。「わたしたち」と祈り始めなければならないことは、「命」を大切に思う人の祈りだからです。より正確に申しますと、人が共に赦し合うように、命を分かち合える人々の祈りだからです。それはこの祈りが、私たちが祈り合うことで、人それぞれではなく、共に人の命を大切に思い、人の命に対する責任を覚えるためだと思います。

 このように考えますのは「主の祈り」が「わたしたち」の祈りであり、私たちが共に祈ることで、必要な糧が既に満たされている人も、満たされていない人のことを共に覚え祈ることを教えられていると思うからです。極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、私たちが祈っても応えて下さらない神様がおられます。神様が幾ら罪を赦したとしても、人同士で赦せず、憎悪や復讐が絶えない場合は神様の赦しも意味を持たなくなります。「わたし」ではなく「わたしたち」として祈らなければならない意味がここにあり、それをイエスは教えているのです。目の前に、同じ食卓に座っている人が飢えているのに、「主の祈り」を唱え一人で食べている人はいないと思います。ここに「わたし」の祈りではなく、「わたしたち」の祈りでなければならない重要な意味があるのです。このように共に祈り合い、助け合う中にこそ人は共に大きな感謝と喜びを感じることでしょう。

 しかし、昨今世の中の現実はこの祈りとは真逆の道を歩み始めています。最近の話では「パナマ文書」の問題があります。世界中の大金持ちらが有り余る資産に対する税金から逃れるためペーパーカンパニーを作り、巨額の資産を隠しているという話ですが、ハッキングされた文書の数は膨大で、隠し資産の全容を把握するのが困難だということです。その中には日本と関連する人や法人も400を超えるという話です。

 今日読まれたルカによる福音書12章の『「愚かな金持ち」のたとえ』という見出しが付いているたとえ話には、先ず、最初に遺産相続のことで兄弟間のもめ事が起こっているのが書かれています。それに対して14節にイエスの応えとして「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と書かれていますがこの中の「調停人」を田川建三氏は「分配人」として(『新約聖書 訳と注』2上)訳しています。この文面で面白いのはイエスが遺産相続問題で兄弟喧嘩の判断や分配人を拒否しているところです。そしてイエスの「たとえ話」が続きますが、その内容とはイエスを頼るのではなくあなたたち自身が解決するべきであるということです。そして、ここで「愚かな金持ち」としてたとえられている人は、多分今も昔も一般的な考え方から「最も賢い人」として認識されている人々です。ただその「愚か」というのは判断の問題で、今回の「主の祈り」の内容と同じく、「命」にその基準を置いたということです。この四月にアメリカの人気歌手であるプリンスという人が遺言も残さず莫大な財産を残し、急死しました。そのため大勢の親戚と名乗る人が裁判所に駆け込んでいると報道されました。
 今、シリアでは多くの人々が内戦による難民となり、またアフリカなどでは環境変化による飢饉など、身体を危険な状態におかされている人々が全世界にどれほどいるでしょうか。日本でも子供の6人のうち1人が貧困状況におかれていると、つい最近報道されました。驚くほど多くの人命がこの瞬間にも失われ、危険な状況に晒されています。このような時代が何よりも必要とするのは分配の問題だと思います。誰にその責任があるのかということを論じる余裕すらなさそうに感じますが、今日の聖書ではそれが神の責任でもなさそうに読み取れます。無論、神様がマナやウズラ(民数記11章参照)のように天から降らせて下されば問題はすぐ解決されると思いますが、声を大きくして祈っても応えられると思いません。むしろ自分だけ生きようとする愚かさをなるべく早く捨てることで一人でも多くの命を助けることができるのではないでしょうか。これがたとえ話の教えではないかと思います。
 「主の祈り」を私たちが共に祈ることはまさにこれらのためではないかと思います。持っている人も、持っていない人も共に祈ることをイエスは教えているのです。「主の祈り」はその日のために必要な糧を求めている人がいることを覚え、「たとえ話」のように今、私たちが何をするべきかを認識することではないかと思います。イエスでも、神でもなく私たちが分配人であるということです。

 最後に「主の祈り」の後半部の並べ方が意図する意味を確認するのは難しいのですが、「必要な糧」が他の12節の「負い目」や13節の「誘惑」より前に出ていることに驚きを感じます。このことは「主の祈り」から、宗教で重んじる罪や赦し、誘惑からの回避の問題よりも、私たちの生の中での順番として「命」こそが優先であり、祈りの中心であることを教えられているように思います。

 しかしながらこの分配のことは極めて困難なことであるのも十分理解しております。個人的に寄付や献金をする方も皆さんの中に大勢おられると思いますが、それだけでは間にあわない現実です。ですから国家や自治体という単位でのしっかりした政策やシステムを作るしかありません。税金や福祉政策も必要です。今、ヨーロッパでは難民の受け入れを拒否する政府が多くなっています。悲しい現実であります。しかし、それを非難するだけでは何の助けにもなりません。祈り合うことは理解を求め合うことで、国を超えてのシステム作りも必要でしょう。それこそ「主の祈り」が人類の遺産であるためです。
(2016年5月21日証詞より)
戻る