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      安住への誘惑(出エジプト記17:1-7)

 今日は旅について申し上げたいと思います。私自身は旅が大好きです。旅先では常に新しい出会いがあるためです。人だけでなく、花や動物や風景でも良いと思います。毎日通っている散歩やドライブの道でも出会いがあります。道端に咲いている花も季節によって変わります。また行く道と帰り道の風景は違います。ですから毎日が小さい旅です。
 外に出かけることだけが旅ではありません。私の場合は朝起きますと先ず聖書を読みます。読書もします。文字だけでなく行間も楽しめます。新しい言葉に出会い、書かれてないことも想像します。これも旅だと思います。そして、旅の白眉は自分との出会いではないかと思います。今から聖書を読みながらこれについてお話したいと思います。
 出エジプト記はその名の通りまさに旅の物語です。エジプトの奴隷だった人々が神の助けを得て自由になり、荒れ野を40年かけて旅しながら、数々の困難や危機を経験するなかヤハウェと出会い、自分を発見し、新しい土地へ向かう話です。そのため出エジプト記は人類のためにも貴重な遺産になっており、共同体が存在する意味や生きる希望と勇気を与えてくれる大切なものです。
 出エジプト記は全40章で構成されていますが、この中で旅の話はほんの少ししかありません。13章の17節から始まり、今日の箇所でほぼ終わります。14章は海を渡る話です。15章の後半部に「マラの水」の話があります。16章は「マナ」の話です。1章から13章16節までは出エジプトの準備をする内容で、19章以下終わりまではシナイ山での契約の内容になっています。15章の前半部の「海の歌」などをも除きますと旅の話は短い部分しか残りません。無論、目的地カナンまでの旅の話はヨシュア記まで続きますのでここが終わりではありませんが。
 今日の聖書は水に関連した内容です。15章の「マラの水」を合わせると、この短い旅の話の中には二度も水の話が出ています。このことは荒れ野での水の大切さを表していることと思います。共同体の旅の仕方は所々にあるオアシスを目指します。「マラの水」もオアシスの水です。しかし、マラの水は苦くて飲める水ではありませんでした。15章22節、23節です。
モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を3日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
 27節には別のオアシスの話が出ています。彼らがエリムに着くと、そこには12の泉があり、70本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。
 このようにオアシスを転々とする中、ところによっては水を巡って争いも起こるわけです。従って旅先では常に危険が伴います。今日の箇所ではさらに厳しい困難に直面します。水があると思った場所に水がありませんでした。1節のところです。主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。この危機に出くわすと共同体の中をパニックが走ります。3節です。しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」前のオアシスから用意してきた水は残り少なくなったでしょう。そのままでしたら水の奪いあいが始まり、殺しあいが始まるかもしれません。とりあえず彼らは全ての責任をモーセに転嫁し、彼を殺そうとします。4節です。モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」大変危険な状況になっているのが読み取れます。危機を前にしそれまで隠れていた共同体の惨めな姿が現れるのです。
 実は、この短い旅の話の中には「不平」の話が四回も出ています。先ほど読みました17章3節にもありますが、それの前のところに3度出ています。先ず、葦の海を渡る直前にエジブト軍に追われていた時です。14章11節です。また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。…」
 そして、「マラの水」のところ15章24節と25節です。民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。
 三つ目は「マナ」のところ16章3節です。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
 危機に出くわす度に共同体の人々は以前エジプトにいた頃の「肉の鍋」や「パン」を思い出すのです。そして、ファラオの下で、奴隷の身分におかれていて呻きや叫び声をあげているとしても飲み水のない、食べ物がない現在よりは良いと思うのです。当然の考えだと思います。まだ経験していない未来と現在とは比較できません。しかし、過去と現在とは比べ易いものです。そして、何百年も奴隷生活を送った彼らにとって自由や解放の経験もなく、それが意味するものを知らなかったと思います。それより今の飢えや渇きの方が重要で切実な問題だったでしょう。蜜と乳が流れる新天地とはモーセや指導者らの勝手な妄想だと思っていたかも知れません。この旅についての後悔や不平は結局安住への誘惑によって始まるのです。ですから旅を始めたばかりのこの時が安住への誘惑が最も強い時期であったと考えられます。旅を諦め戻ることがまだ可能だからです。
 しかし、旅とは過去との断絶を意味します。旅はこれまでの安住の場所から離れることから始まります。安全で楽しいところであってもそこから旅に出るのにはその場を諦め、離れなければなりません。共同体が葦の海を渡ったという話は、奇跡で海が割れたという奇跡物語よりも、奴隷だった過去との断絶を象徴する旅の物語ではないかと思います。
 そして、葦の海を渡ったところでエジプト軍の追手も見えなくなり、これから安全な旅が始まると思っていました。しかし、その瞬間は新たな危機に変わります。それまで隠れていた内なる敵の姿が現れます。飢えと渇きの危機は不平と分裂に進みます。これこそ内なる敵の姿で、他でもなく内在していた自分自身の姿です。この時に初めて自分との出会いが起こるのです。共同体が自分の惨めさに初めて気づき、狼狽える時でもあります。
 水の話に戻ります。水がありませんでしたが、水はあったのです。5節と6節です。
主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
 オアシスは池や湖とは違って川から流れてくるのではなく、井戸水のように地下から水が湧き出るところです。荒れ野や砂漠では水は地表よりも地下を流れているのです。杖で岩を打ったというのは、岩が水になったという話ではありません。岩の下に水脈があったことを意味します。水も湧き出るまで地下を旅します。人々も旅の途中これまで見えていなかった自分と出会えることがあります。それらが姿を現すのは安全で平和の時より危機の時です。そこには忍耐する神の姿も見えます。見えなかったものが見える時こそ最も大切な出会いの瞬間です。それによって互いに変わります。水との出会いは共同体の運命を大きく変えました。共同体自身も変わります。
 出エジプトの共同体の荒れ野の40年の旅は人類や私たちに出会いの意味合いと、惨めな自分に向きあえる姿勢を教え、未来へ前進できる希望と勇気を持たせてくれる大切な内容を含んでいると思います。
 百人町教会の旅も四七年を迎えておりますがまだ旅の途中です。安住への誘惑には一応勝っているつもりですが、まだ続くでしょう。皆様と旅の仲間になったことをいつも誇りと思っております。(2017年2月26日証詞より)
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