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      I am a Man(出エジプト記3:13-22)

 今の安倍政権の横暴さは彼らが提案している共謀罪に当たる罪ではないかと思います。共謀罪を始め、改正しようとする憲法の内容にも人権を侵害する多くの内容が含まれているようです。勿論戦争ができる国を作りたいという発想は今後若者の命や人権を侵害することになると思います。このような時に重要なのは国家の公安に身の安全を任せるのではなく、市民一人ひとりが人権意識を強く持って自ら主張することが大事だと思います。デモだけでなくあらゆる分野で自己発言を重ねていくことで世論が形成され、それが投票にもつながり、現体制に勝手なことができないように緊張感を与えることになると思います。このようなことを思いながら、今日は人権と関連した聖書を読んでみたいと思います。
 今日の箇所は木田献一先生が定年退職後の2002年に教文館から出版された『神の名と人間の主体』という凄くありがたい本にまとめられた内容の一部です。大分時間も経ちましたので皆さんの記憶からも薄れていると思いますから、もう一度記憶を蘇らせて欲しいという願いもあります。もう一つは、昨年アメリカの旅の時に寄りましたテネシー州のメンフィスにあるマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたモーテルが「国立市民権博物館」になっていまして、そこで見たことが今日の聖書の内容とオーバーラップするところがありましたのでそれを合わせて紹介しようかと思います。
 先ず、聖書を読むことについて申し上げたいのは「想像力」をもって読むことだと思います。想像力とは行間を読む力を意味します。そして、「共感」をもって聖書を読むことも大事だと思います。前回の証詞でも申し上げましたように福音書に奇跡物語が多く出ていますが、そのようなことは信じられない、納得いかないということではなく、イエスが如何に多くの社会的弱者と接していたのかという面から読むと共感するところが多くなると思います。同じく、今日の出エジプト記の内容を読んだ時にどのような立場の人が共感するかと思いますと、奴隷的な状況におかれている人だと想像するのは無理なことではないと思います。被差別や被抑圧の立場におかれている人々のことと思います。例として現在でも差別が多く残っているアメリカのアフロ・アメリカ人、即ちアメリカの黒人のことです。出エジプト記は彼ら彼女らが最も身近に感じる聖書です。旧約聖書の全ての内容は出エジプトやバビロン捕囚にその原点を持っていると思います。その意味で一国家として、一民族として、一人の人間として抑圧の経験があるのなら聖書をリアルに読むようになると思います。こういったところから聖書を読みますと人権のことを始め、世界のこともよく見えてくるのではないかと思います。無論、読まなくても生きるのには支障がありませんが、読んで損することはないと思います。
 聖書本文の内容はモーセが神の名を尋ねまして、それに神御自らが答えてご自分の名を明かすところです。エジプトの奴隷であったヘブライ民族にとってそれまでの神の名は彼らの「先祖」を飢饉のためエジプトへ導いたヨセフの代から、その父親ヤコブとその先祖二人の名で記憶されていました。即ち、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という名です。この呼び名は今日の聖書にも15、16節に二度出ています。考えてみればヒンズー教や神道などの他の宗教は多くの神の名を持っていますが、ユダヤ教に関連したキリスト教、イスラム教にはありません。唯一の神であるため神を区別する名は必要がなかったかもしれません。
 今日の聖書の箇所は神がご自身の名前をモーセに明かす場面です。神の方から率先してではなくモーセの方から神に尋ねる形をとっています。13節です。
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 このところを読みますと、少し不自然さが見えます。モーセは自分の意見として神の名を尋ねていません。例えば、素直に「あなたの名前は何でしょうか」と聞いていません。代わりに、「彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。」と神に尋ねます。モーセは3章の前半部でエジプトへ戻り、苦しんでいるイスラエルの人々を連れ出すように神から頼まれている状態です。この神の名の問い方を通して感じ取れるモーセの気持ちとは、既に自身はエジプトのイスラエルの人々の所に行っていて、同族の気持ちに共感しているような積極的な発言として想像してみるのは勝手すぎることでしょうか。そして、この問いに対して神が答えます。14節です。
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
 神の名は「わたしはある」という妙な名前になっています。木田先生の本によりますとこの名前はヘブライ語で「エフイエ」という言葉で、ここ一箇所しかない名前だそうです。しかし、この名前から後の殆どの神の名は「ヤハウェ」となります。「ヤハウェ」という神の名の意味は「彼はあらしめる」という意味だそうです。即ち、「わたしはある」という一人称の神の名から、「彼はあらしめる」という三人称の名前に変えられたということです。
 ここからも私自身の想像ですが、この時にモーセは神の名を「ヤハウェ」と、即ち「彼はあらしめる」と訳し、エジプトの奴隷の人々のところに紹介したかという疑問が生じます。ここで聖書には書いてありませんがモーセが「エフイエ」という名前のまま持って行って紹介することを想像してみました。それでモーセがイスラエルの人々にあなたたちの先祖の神が教えてくださった名前が「わたしはある」という名前だと伝えたと想像してみるのです。そうしますと奴隷の身であったイスラエルの人々が心の中で、或いは声を出してその神の名を呼んでいる姿です。その時の奴隷的存在である人々、即ちエジプト人としての存在を拒否されていた人々、生まれる男の子が全て殺されたというのは正に人間として生きることすら否定された人々で、彼らが神の名を呼んでいる姿を想像してみます。今、彼ら、存在を否定された人々の心境となり、自分の心の中で静かにその名を呼んでみます。「わたしはある」「わたしはある」その響き、凄くありませんか。英語では「I am」です。わたしは存在するという意味です。このことにあまり共感できない方もあるかもしれませんので、その方々にこのことをどう伝えるべきかが悩みでしたが昨年のアメリカの旅の時に見つけました。「国立市民権博物館」で市民権運動の時の黒人たちが持っていたプラカードに「I am a Man」と書いてあったのです。あ!これだ!と思いました。差別を受け、人間としての存在を否定されていたアメリカの黒人たちが一人の人間としての自分の存在をアピールした時の言葉「I am a Man」、これこそがモーセに明かされた神の名の意味ではないかと思ったのです。黒人の人々も出エジプト記の神の名こそが自分に語られた神の名であると気がついたでしょう。「I am」「I am」「I am a Man」と響きが続いたでしょう。これこそ主体性の喚起の事件と言えるものと思います。人間としての存在が否定されても神は共にあり、自らも自己存在を否定して来た人々がこの神の名を呼ぶことによって自分を認める事件、これこそが私たち誰もが神と出会う時に起こる事件ではないかと思います。(2017年5月21日証詞より

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