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      権威について(ルカによる福音書20:1-18)

 少し早いのですが、受難週に当たるイエスのエルサレム神殿での活動箇所を選びました。今回は当時のイエスが置かれた環境を学ぶお勉強の時間にしたいと思います。
 早速ですが1節の前半部に、イエスが神殿の境内で民衆に教えたという話があります。神殿でのこの教えは十字架につけられる数日前のことです。福音書にはイエスが教える場面が多く出ています。ガリラヤでイエスが教えていた場所は湖畔や野原が主だったと思いますが、意外に思いますのは安息日の会堂での教えです。イエスはユダヤ人ですので子どもの頃から安息日になりますと会堂に行き、平日に行われる集会にも参加していたと思います。当時会堂は集会の場だけでなく、子どもたちの教育の場でもありました。環境がある程度揃っている家庭では子どもの幼い頃から教育を行い、大きくなるにつれて会堂で続けられます。例えば、5歳から聖書を学び、10歳でミシュナ、13歳で掟、15歳でタルムードを学ぶというものがあったようです。特に聖書が置いてある会堂では読むことを学ぶようになりますので大変重要な教育機関になります。このような教育課程を考えますと、12歳のイエスが両親と共にエルサレム神殿へ上った時に境内において大人たちとの話しあいのなかで、「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」(ルカ2章41節以下)という反応がありますが、神の子だから当たり前というより、こういった教育をイエスが受けていたとすれば状況理解の助けになるのではないかと思います。
 会堂での催しは安息日の集会が他より重要であったと思いますが、百人町教会の礼拝と似ているところもあります。例えば、マルコではイエスが活動を始めてすぐの時期に会堂で教えたと書かれていますが(1章21節以下)、イエスはどのような資格で教えることができたのでしょうか。イエスは律法学者やファリサイ人でもありませんでした。会堂長がいましたが彼らは管理者で、教える者ではありませんでした。このことを逆から考えますと説教の独占はなく誰もが話すことができ、その上参加者同士での質疑応答があったということです。ですからイエスのような新人でもユダヤ人としての教育を受けてきて、聖書を読める人でありましたら可能であったようです。今日の聖書の直ぐ前の19章48節の後半にも、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた」と人々が驚いている姿が描かれています。 会堂で行われる集会の内容について少しご紹介しますと、集会はシェマ(聞け)という申命記6章4節から9節の信仰告白を唱えることで始まります。
「4聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。6今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。8更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
 ご覧の通りこの内容は神への徹底した思いと六節以下の聖書を如何に大切にするか、子どもたちにどう教え、伝えるかについての内容を告白するようになっています。ユダヤ人の信仰と一致する生活の徹底ぶりが伺われます。しかし、当時は今のような学校もなく、聖書のような書物も会堂にしか置いてない環境でこのような内容がどうやって徹底されていたのかについてですが、家庭での教育は暗記を中心に親から子へ、会堂では人々から聖書の読み方、解説をすることを学びます。もう一つ、当時の社会で使われていた第一言語はアラム語でしたので、ヘブライ語の聖書を読む時には聖書一節を読み、それをアラム語へ訳し、一般人の理解を助けたようです。もしこのようなことが正しければ会堂でのイエスは両方の言葉を行使でき、時々使われるアラム語の表現も納得できます。
 次に、今日の箇所の2節の「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」というところは今回の証詞の題とも関連しますが、このことを言ったのは1節の後半に記されている、祭司長、律法学者たち、長老たちです。これらの人々こそ当時のユダヤ社会における公認された権威の持ち主たちでした。しかし、彼らはイエスの教えや奇跡などによって自らの権威が脅かされていることに憤慨し、表面的には社会的秩序云々と言いながらも内実では強い危機感と妬みによるイエスの殺害を狙った問いでありました。
 今回はこのイエスの権威についてよりも、当時のユダヤ社会において公認されていた幾つかの権威についてご一緒に考えたいと思います。当時の権威と言いますとそのトップにはエルサレム神殿の大祭司とそれに続く祭司長、祭司たちがいました。これらの権威はバビロン捕囚帰還後の第二神殿の時代から確立した権威でローマによって神殿が破壊されるまで続けられたものです。そして、祭司に近い権威にはサドカイ派の人々がいました。彼らは祭司階級から発生した貴族階級です。その他に共同体などを代表する長老がいます。そして、律法に関連する権威として律法学者と律法の実践を重んじるファリサイ派の人々がいました。洗礼者のヨハネやイエスのように預言者などに見なされていた人もいました。

 これらの権威についてもう少し詳しく検討したいと思います。先ず律法学者のことですが、彼らは律法を研究し教える立場にいる人です。本来は祭司階級から出発した人々で、バビロニア捕囚帰還後、エルサレムで神殿と祭儀の再建が行なわれましたが、国家権力である王権はペルシアによって認められませんでした。そこで社会の秩序を確立するために律法が強調されるようになります。しかし、当時律法学者という専門職はなく祭司がその役割を兼ねるようになります。ネヘミヤ記八章九節には、「総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。」と帰還後の祭司的指導者であったエズラが祭司と書記官(律法学者)を兼ねていたことを記録として残しています。そして、人々が祭儀だけでなく律法に関しても大喜びで受け入れていたことが記されています。
 次に、私たちが聖書でとても馴染んでいるファリサイ派の人々がいます。彼らは福音書では頻繁に登場していますが、何故か旧約聖書では一切登場しません。と言いますのはユダヤ人社会での彼らの歴史はまだ浅かったということです。彼らが登場する歴史的な背景について少し調べてみました。捕囚帰還後暫くはエルサレムとパレスチナはペルシアが宗主国でありました。このペルシアの時代を終わらせたのはマケドニアのアレクサンドロス大王です。しかし、大王は間もなく死去、帝国が三分割する中、セレウコス一世によるシリア王国が前312年に成立し、パレスチナはこの支配の中に取り入れられギリシア時代が始まります。サドカイ派はこの時期に発生した祭司、貴族などによる思想集団で、死者の復活や死後の世界を否定し、ギリシアやローマなどの征服者と妥協する合理的な立場で、ファリサイ派とは対立的な立場にいました。

 リサイ派はこの時代に征服者が神殿祭儀を侮辱することに反発し、地方の祭司であったマカバイ兄弟が抵抗と独立戦争(前167-160年)を起こした時に、律法を中心に侵略者とは一切の妥協を拒否し、マカバイ戦争に協力していたグループでありました。それ以来彼らが律法を厳格に守ることで民衆から支持を得るようになったようです。戦争は勝利し、独立王朝であるハスモン朝(前140-37年)が成立します。聖書の続編にあるマカバイ記はその記録です。しかし、この律法に対するファリサイ派の厳格な態度は余裕があってこそ可能なことで、下層民であるアム・ハアレツ(地の民)と呼ばれていた人々には日々の糧を得るため安息日を守る余裕すらありませんでした。地の民にとって律法は重荷となり、その基準では罪人にならざるを得ませんでした。よく見るとそれまでの権威は地の民の抑圧の上に建てられたものです。

 しかし、イエスの公生涯は地の民と共にし、彼らの重荷を共に背負い、贖う道を歩みました。地の民にとってイエスの教えは驚きであり、イエスの歩みは真の権威でありました。
(2018年2月18日証詞より)
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