戻る
      わたしには夢がある(使徒言行録2:14-21)

 今日の証詞は一ケ月前(3月4日)の牧師日誌にも書きましたが、あと二年後に来る百人町教会の創立50年のことを考えながら準備しました。それで選びましたのが今日の聖書であり、題です。
 使徒言行録の2章は1節から13節までがペンテコステに関連する内容で、14節から41節までが一括りでペトロの説教になっています。このペトロの説教はイエスの復活と昇天の後、弟子たちのみの力でイエスの福音を伝えようと思い始めた頃の最初の説教として知られている内容です。今日はその前半部だけを選んで読みました。
 ペトロはイエスの愛弟子の一人であり、重要な目撃者の一人ですので、イエス以後の証言者として最もふさわしい人物でありました。ですから使徒言行録の最初の説教者として登場するのはごく当たり前なことと思いますが、私自身の思い込みの中にはあのべトロがという気持ちもあったのをここで告白します。と言いますのは福音書には弟子たちの説教は一つもありませんし、イエスの弟子に選ばれるまではガリラヤ湖の漁業労働者の一人だったことを覚えているからです。当然いけない偏見だと思い、直ぐ反省しました。その後にも、最初の説教を前にした彼の思いはどんなものであったのか、心細くはなかったのか、怖れはなかったのかとまた余計な思いまでしてしまいました。自分がそうですので。
しかし、ペトロはペンテコステに起きた聖霊降臨事件を経験する中、大勢の人の前でとても大切な説教をしました。ここで今日の箇所である彼の説教の全てについて説明できませんが、その主な内容はイエス以後のペンテコステ、即ち教会の始まりに当たり、神の救いの新しい歴史の扉を開くということです。そして、現代におけるもう一人の説教者についてこの後に紹介したいと思いますが、その方の説教もこのペトロの説教を思い出させるような内容で、力強い説教であります。
 先ず、今日の聖書について申し上げたいと思いますが、17節から21節までのところが『』の中に入っています。この部分は旧約聖書のヨエル書3章1-5節の引用です。ペトロの最初の説教の内容として旧約聖書の預言書が引用されたのは、イエスと同じく、彼らがヤハウェ神に連なる集団であることを示すものであります。預言者的伝統の上にイエスの福音を関連させているのです。
 その中で21節の「主の名を呼び求める者は皆、救われる」という言葉はキリスト教宣教において大変重要な言葉です。ペトロの場合、この主は神ではなく「イエス」で、彼以後のキリスト教においてこの内容は信仰告白に連なる重要な宣言でもあります。これをもって親鸞が名号、即ち、「南無阿弥陀佛」を唱えることで救われるのと同じ次元の信仰だという日本のキリスト者もいたようですが、南無というのは「帰依」というとても良い意味ですが、「南無イエス」と繰り返して唱える習慣はキリスト教にはありません。それにこの箇所は元々ヨエル書3章5節aの引用で、ペトロは3章1節も引用しています。
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。
このヨエル書の言葉と少し異なるところがありますが、ペトロの説教の17節のところが並行箇所で今日はこの内容について主に考えて見たいと思います。
 神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
 ペトロの説教の前半部の内容はこの日、ペンテコステの聖霊降臨事件が、ヨエルの預言の内容と同じく、神の霊が注がれたと理解したものです。そして、後半部の内容は預言や幻や夢について語っていますが、聖書で幻や夢とは神の救いの約束が啓示される時に手段として働きます。
この聖句に関心を持ちましたのは、今日この後に教会総会が開かれますが、創立50年を迎えるにあたって「今年の聖句」としてどうかとの思いもあってのことです。ペンテコステのペトロのように、皆さんも50年前にはまだ若く、預言を語りながら百人町教会を始めようとしたのでしょう。その歩みと歴史は教会誌「ろば」にちゃんと書き残されています。初めからの方や「ろば」を最初から読まれた方は覚えておられると思いますが、「ろば」の第2号に掛井五郎さんが「あなたは何を見るか」とエレミヤ書1章11節を引用して文章を書き残しています。その内容は預言者エレミヤの召命記事の一部でエレミヤが見た二つの幻の話です。一つは「アーモンド」で、もう一つは「北からの鍋」です。両方とも当時の時代的な変化に気づいたことを表したことと思いますが、要するに預言者の夢や幻は歴史の中で神の救いや裁きの内容を預言したものです。その幻を見ていた頃のエレミヤもまだ若者だったのです。50年前の皆さんはエレミヤのように幻を見る方々でした。
しかし、今はもうその頃より50年も歳を重ねるようになりました。ですからお疲れ様でしたということではありません。今日の聖句はそのようなことを全く語っていません。その逆の話です。まだまだやることがありますという内容です。若い方には是非預言を続け、幻も見て欲しいです。しかし、ご自分が老人と思われる方にも是非やって頂きたいことを預言者ヨエルが、使徒ペトロが、語っているのです。それは「老人は夢を見る」という言葉です。この言葉は私たちがやるべき神の働きがまだまだあるということです。 
 夢と関連したもう一つの話があります。先ほども申しましたが、ペトロのような説教者についての話です。偶然にも四日前の4月4日はマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年となる悲しい日でもありました。キング牧師が亡くなったのは三九歳の時でした。とても若かったのです。彼は50年前からこの世にはいない人ですが、彼の息と夢は今も残り、生きて語り継がれているのです。そして彼は1963年8月あの有名なワシントン行進の時にリンカーン記念館の前で「I have a dream」「わたしには夢がある」という世界の人々の心に残る演説をしました。今もその夢、その預言は人類が必要とするものです。きっとキング牧師も私たちが今読んでいる箇所を読んでいたと思います。
 ヨエルの夢、ペトロの夢、キング牧師の夢には共通点があります。それは夢を通して示される神の救いの内容です。使徒言行録の続く18節に書かれています。
わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
 男も女も、若者も老人も、自由人も奴隷も、全ての人が神の民となり預言するという内容です。素晴らしい解放への宣言です。ペトロにもそれに負けない夢がありました。彼はユダヤ人だけでなく異邦人にも神の救いがあると夢見ていました。そしてキング牧師に至っては全ての人種が、黒人も白人も神の救いの対象となるという夢を見ていました。これらの夢は私たちの夢でもあります。
 夢は時代と環境によって少し形を変えているように見えますが、聖書の夢は私たちが信じている神の救いの内容であります。例えばその救いの内容が自由であり、平和であり、正義や愛であるとすれば、その夢が何にもないところで示されるのではありません。必ず自由は抑圧の場所で、和解と平和は争いの時に、正義は不義が行われるところで、そして愛は憎しみが蔓延しているところで語られます。ですから夢は相対的であり環境によって逆の概念で示されるのです。その意味で聖書の夢とは現実の批判でもあり、預言であり、祈りであることです。聖書には老人が夢を見る内容が多く書かれています。何の希望も見えない時と場所で老人の夢は語られます。アブラハムの夢、ヤコブの夢、モーセの幻、シメオンの夢などなどです。
 今日の証詞の題は創立50年を前にした教会のことを思い、最初は聖書そのままに「老人には夢がある」としようかと思っていましたが、「老人」という3人称より、「わたし」という1人称の方がヨエルの預言にもペトロの説教にも、そして百人町教会のこれからにも良いのではないかと思いまして、キング牧師の言葉からお借りしました。今後しばらく「ろば」も50年を迎える内容でシリーズを組む予定ですが、同じく証詞に於いても皆さんの夢を語って頂ければと願っております。「わたしには夢がある」いつまでも夢を見る人となりたいと思っております。 (2018年4月8日証詞より)
戻る