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      「分裂」と「平和」(ルカによる福音書12:49-53)

 先週の日曜日(2月24日)に普天間米軍基地の辺野古移転の賛否に関する沖縄県民の投票がありまして、投票率が52%を超え、内反対が72%を超える結果がでました。この他にも未発表の統計として年齢や地域などに関する細かい数値もあると思います。そして、それでは確認できない夫婦や親子などの間にこの問題についての理解や立場などで家族の中で分裂や対立が起こっている家庭も当然あると思います。同じく、村人や同僚や友人の間でも分裂や対立があったと思います。
 今日の聖書の52節と53節のイエスの言葉には家族の中で対立して分かれが生じると書かれています。
今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。
 そして、49節以下ではその原因がイエスご自身にあると言っています。
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
 随分厳しいことが書かれていますが、ここでイエスが聴衆に一番言おうとする内容は50節だと思います。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。

逆説的な言い方だと思いますがこれをどう理解すればいいのか極めて困難な内容です。以下では真髄を理解することはできないかも知れませんが自分なりの接近の仕方で近づいてみることにします。ここで私たちの理解を混乱させることは私たちが持っている「平和」や「分裂」という概念についての価値観だと思います。「平和」は常に良いことで正しいことであり、「分裂」は常に悪いことで正しくないことだと思うのが一般ではないかと思います。私たちのこのような理解とイエス、或いは聖書の理解が相反するものかを確認する必要があります。ここでいう「分裂」と「平和」はある個人の精神的な安定や不安を言っているとは思いません。家族間の不和を例示しているところから社会的な問題だと思ってよいでしょう。そうしますと当時のパレスチナの社会的状況を確認してみることは理解を助けることになると思います。
 イエス時代のパレスチナの社会的状況はその歴史的状況と密接な関連性があります。それは遡りますと紀元前六世紀にパレスチナ全域が新バビロニア帝国の支配下に置かれて以来、ペルシア帝国、マケドニア帝国、ローマ帝国へと次々に支配する国が入れ替わる中、その600年近くを他国の支配を受けて来た歴史における問題です。勿論、その間ユダヤ教は独自の宗教として進歩を続け、堅い共同体としての根幹を成して来た歴史でもあります。そのような歴史がパレスチナの社会的な状況を大変悲惨なものへと変えたことを想像するのは難しくないことと思います。当然のことですが「分裂」と「平和」という言葉は当時の人々にとって最も切実な問題だったということです。このような状況は現在の沖縄とオーバーラップするところがあります。
 先ず、この時の分裂について考えてみることにします。バビロン捕囚期からユダヤ人の共同体は世界中に分散して生きるようになります。そのような人々やグループを「ディアスポラ」といいます。世界各地に住んでいる彼らは言語もバラバラです。互いに通じない言語を使っていましたので分裂は当然のことだと思います。ペンテコステの事件は世界各地からのディアスポラの集まりで、言語的に一つになったという象徴的な意味を持っています。また当時のユダヤ教は多くの宗派に分かれていました。サドカイ派やファリサイ派、エッセネ派や過激派、祭司グループや律法学者グループに分かれていました。それに洗礼者ヨハネやイエスのグループも形成しつつありました。勿論社会を大きく分けるようにしたのは外国の支配です。そしてパレスチナの代理支配者です。それだけではありません。被支配者であるユダヤ人共同体の中にも階層の分裂がありました。600年という長い支配期間と次々に入れ替わる支配者は社会状況を捻じ曲げ、分裂や対立などを起し、憎しみやへつらいなどが蔓延する社会へと変えました。当然この状況はユダヤ人共同体を二分させ、支配と被支配構造を作り上げ、搾取、疎外、差別、抑圧などが横行するような社会になります。祭司貴族やサンヘドリン(議会)は支配者の手先機関として貴族層になっていきました。中間層としては搾取機関として有名で聖書にもよく登場する、人々に憎まれている収税人や土地管理の代理人などがいます。当時の社会構造上彼らはある程度の富を基にして支配者により多くの額を収める者が選ばれる仕組みになっているため、当然被搾取側の状況は益々厳しくなって行きます。その社会的状況の中で一番多かったのは土地や働き場を持たない貧困層です。彼らは常に飢えと闘わなければなりませんでした。彼らを想像するのにはイエスの周辺に集まる人々を見ればわかります。女性や子供の数を入れないで田舎に4千人とも5千人ともいう人が集まったというのは、その上2日も3日も食べていないという言葉もありますので、それだけ仕事がなく飢えていることです。このように当時のユダヤ人社会も耐え難い分裂状況が数百年間も続いてきたのです。この混乱した時代を是正したいという動きは当然いろいろとありまして、人々は皆シャローム(平和)を求めていました。
 しかし、当時の社会では「平和」に関する思いがいろいろと違っていました。支配者ローマが求めていた力による平和、中間支配層が求めていた妥協的平和、一部宗教グループが求めていた逃避的な平和、或いは武力による平和など。そして、自分たちの力ではどうしようもないと思っていた大多数の貧困層の人々が求めていた唯一なる期待とは新しい指導者が現れるのを待つことだったでしょう。洗礼者のヨハネもその一人で、イエスもその一人でした。この二人が共通に言い出したのは「神の国の宣言」です。人々はそれを神による直接支配、神による平和の世界だと受け止めました。即ち、この宣言は神以外の支配を一切認めないという驚くべきものでした。

 次は「分裂」という言葉についてですが、日本語では「分裂」という意味は否定的ニュアンスしかありませんが、英語のdividedivisionは分裂だけでなく、分ける、分離、配分や共有するという意味まで持っています。ギリシア語のdiamerizoも同じく分ける、分配する、分離するという意味です。そして語尾のmerizoだけでも分けるという意味があります。ここでdiaという語頭には通じる、通すという意味があります。この語頭を持っている言葉にはディアスポラやディアコニア(奉仕)というのがあります。ギリシア語聖書がmerizoではなくdiamerizoを使っていることに目を向けますと、分裂ではあるが根底が繋がっている意味の概念として理解したくなりますが無理なことでしょうか。

 最後にこの聖書の内容は出会いを前提にしています。イエスと民衆との出会い、それによって分裂や危機が発生し、同時にその出会いは決断と新しい道へと繋がる結果へ導きます。イエス自身もこの出会いによって決断をせざるを得なくなります。それは何故でしょうか。これまでの歪んだ平和ではなく真の平和を選ぶためです。それは神の支配のみを認めることです。それまでの権力、階層、宗派などを否定することです。ヨハネやイエスのどちらかを選ぶことではありません。神の国、神の支配下で生きることです。
 沖縄の人々は今回の県民投票で数の力で沖縄のみの平和を守ろうとしたとは思いません。仕方なく投票という数の分裂を選びましたが、沖縄の人々が真に求めているのは、戦争ができる国を作り、そのため憲法改悪を求めている自民党や安倍政権が考えている平和は偽りであることを宣言し、沖縄の地に米軍基地がなくなる時こそ、日本の平和憲法が守られる時こそ、例え今より貧しくなるとしても、沖縄に、日本に、アジアに、世界に真の平和をもたらすことを信じているためだと思います。そのことは聖書を通して教えられた「分裂」と「平和」の間にある意味合いや神の国の宣言が時間と空間を超え、現在でも現実の根底で繋がっているという驚くべき事実を再確認することができたと思います。
(2019年3月3日証詞より)

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