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      神の主権の場(ルカによる福音書4:42-44)

 参議院戦の投票日が7月21日に迫ってきました。候補者は皆、国や国民のためだと言っています。しかしながら、安倍政権は今回の選挙戦でこれまで掲げて来た憲法改正への道を仕上げようとしています。これも日本国を強くするためだというものの一環です。国のため、国民のためというのが実際どのような形で行われてきたかはこれまで皆さんが見てきた通りです。格差の問題は是正されず、年金や介護にも厳しい姿勢を取り、隣国との関係は悪くなるばかりです。
 森喜朗元首相が「日本は神の国だ」という発言をしてひんしゅくを買ったのは2000年のことですが、それも日本が強い国であることを表す言葉でした。彼がいう「神の国」とは全く意味が異なりますが、同じ言葉をキリスト教においてもとても大切にしてきました。このこともあり以前から自分が思っていたことから福音書における「神の国」についてご一緒に考えたいと思います。
 「神の国」とはイエスの働きの中で最も大切なテーマの一つです。その内容もそうですが今日の短い聖句はそれを表しています。特43節に、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」と。この「神の国」という言葉は旧約聖書にも新約聖書にも出てきますが、新約聖書ではその殆どが福音書に、特にマタイ、マルコ、ルカの共観福音書に出ています。イエスは例え話を通して「神の国」について人々に教えています。しかし、これが分かったとしてもこの「神の国」の意味をどう理解するべきか、受け取るべきかは私たちにとって困難極まるテーマであります。
 分かりづらいところから考えますと、マタイによる福音書では「神の国」という言葉は五回しか登場しませんが、「天の国」という言葉は32回も登場します。因みにマルコやルカには「天の国」という言葉は一度も使われていません。この二つの概念が同じものか異なるものかをまず考えなければなりません。そもそも「神」も「天」も抽象的であり、象徴的概念です。言葉をかえれば「神」とは存在論的概念です。そして「天」とは空間的概念です。例えば、「天にいます神」とか「天の神」という言い方がありますが、この言葉を通して天は神が存在する場所のように考えてしまうことが多いと思います。しかし、実際には天という言葉も超越的存在である神を、超越的空間として表しているのです。従いまして、もしもマタイが「天の国」と言ってもそれは「神の国」とほぼ同じ意味であることを前提として考えたいと思います。
 ここで一緒に考えたいのはそのような問題ではなく、「神の国」の意味をどう理解すればいいのか、どう受けとめるべきかという問題です。「神の国」を木田献一先生は「ろば」73号(86年5月)の紙上で「神の支配の場」と理解していました。八木誠一という新約学者は「神のはたらき場」(『イエスの宗教』岩波書店)と理解しています。ここに「国」や「支配」、「はたらき」というのは「神の国」と同じ意味として理解されています。それでは聖書のギリシア語はこの「国」というところがどうなっているのかを見てみますと、天の国は「Basileia twn ouranwn」で、神の国は「Basileia tou Teou」という言葉になっていまして、「バシレイア」という言葉が「国」として共通に使われています。この「バシレイア」という概念が当時の世界で世俗的に使われる場合、「王の支配」、「君主制」、「王位」、「王権」、「王国」という機能的面と地政学的面などで使われていた言葉です。
 しかし、「神の国」をイエスの働きにおいて最も重要なテーマとして考えた場合、「国」という言葉そのままの意味で使ったとは考えられないところがあります。この世俗的な言葉をイエスが使うようになった時には、新しいイエスの言葉になっていたことを想像することが必要です。そのため「バシレイア」に「天」や「神」という言葉がセットになって語られていたのです。ここで「バシレイア」という言葉が世俗的な意味で使われた時に古代世界の価値観では君主や王という権力者、即ち、力を持って民を支配する者の機能や領域を表す概念であったと考えられます。この王的存在をただ「神」に換えたことで意味が大きく変わるのかという問題です。
 私たちを混乱させるもう一つは英語聖書の神の国の表現「The Kingdom of God」があります。要するに、これまでの王が支配することを神が支配することへと変わっているだけの意味かということです。単純に考えますと王より強いと思われる神に換わることでその領域や機能が強化されたと思ってしまう事です。これまで多くの人は「神の国」はこのように考えていたのではないかと思いますが、或は全くこの世とは関係無いあの世のことと思っていた人も多くいると思います。
 さて、そうしますと私たちは「神の国」をどのように理解すればいいのでしょうか?難しい問題ですが、今日は別の角度から理解してみることを提案したいと思います。そのために付けた題が「神の主権の場」です。この言葉はどのような意味を持っているのかを先ず説明しなければなりません。
 先ほど申しました「バシレイア」の世俗的意味においての王国や王の支配、王権などは力によって得られる権力です。このような権力を「覇権」と言います。そうしますと、神の国や神の支配という概念においても神の「覇権」を認めることでしょうか?神の力による一方的な支配ということですね。もしイエスが言う「神の国」が「神の覇権」による支配という意味でしたらイエスがこの世に現れる前から世界は神の力が働いている場でなければなりません。しかし、人類の歴史において誰も神の覇権的支配は経験していないと思います。教会が世俗権力の力を借り覇権を取ったことはありましたが、それは「神の覇権」とは一緒にすることができません。しかし、「神の覇権」はイエスがいう「神の国」とは異なるものだと思います。本日の聖書の内容から考えますと、もし神の国が右で言う神の覇権的支配でしたらイエスがこのように各地を転々としながら苦労の中で神の国を宣伝する必要はなかったと思います。そうしますとイエスは一体「神の国」をどのように思っていたのでしょうか。少なくとも神の覇権的なものではないことは分かります。イエスの教えやイエスについての証言などのイエスの働きを通して見えるのは、神の国を自らの死も恐れずに伝えようとしている姿です。ここで「覇権」ではなく「主権」という言葉を使ってみることにします。即ち、神の一方的支配ではなく、人々が神を受け入れる時に、即ち人々が神の主権を認める時に初めて神の意志が人々の間に働き始めるという意味です。覇権主義者の神ではないため御子イエスの生と死を通して人々に具体的に神の主権を認めてもらうことにしたのではないかと思います。それは同時に神自らも人々の主権を認めておられるということでもあります。被造物である人々が神の所有物ではないことを認めていることです。この相互の認め合い、信じあう場というのが神の国が表す「バシレイア」の意味ではないかと思います。
 「主権の場」としましたのは「国」が場所を表すのではなく、それを超える存在論的な領域を表すためです。今回の参議院選挙で安倍政権が狙っているのは日本という限られた領土を持つ国に他の国と比べ強い国家を形成することです。それには普遍性はなく排他性が強い覇権的国家形成に狙いがあるのみです。
 神の国は「神の主権が認められる普遍的な場」という意味で「神の主権の場」と題を付けてみました。ユダヤ民族による支配もローマの支配もそれらの全ては覇権による支配です。覇権による支配には弱者が生きられる場はありません。排除され、捨てられ、疎外されます。しかし、イエスは神が全ての弱者の権利を認めていることをあらゆる側面から教え、行動します。そして、「場」とは場所を意味するのではなく、状況や機会などの意味を持ちます。本日の聖書に「朝になると、イエスは人里離れた所へ出ていかれた。」の中の「人里離れた所」はギリシア語で「eremos topos」ですが、「トポス」という言葉は正に今日の「場」を意味する言葉です。新約聖書における何かのための機会、何かのための活動領域などを表します。最後に神の主権の場を象徴的に表す箇所を紹介します。「イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17・20b-21)2019年7月7日証詞より)

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