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種を蒔く人(マルコによる福音書4:1—9)

  今日の聖書はマルコによる福音書におけるイエスの最初のたとえ話です。このたとえ話はマルコだけでなく、マタイやルカによる福音書でも最初のたとえ話になっていますのでイエスの重要な教えとして考えられます。
 このたとえ話の中の種とは、種にもいろいろありますが、イスラエルの収穫感謝祭を起源とする過越祭りやペンテコステの時期を考えますと、また古代世界で農耕文化が始まって以来現在までの中近東の人々の主食が小麦であることから小麦の種と考えられます。また蒔かれる時期は種類によって異なると思いますが、祭りの時と合わせると小麦の種を蒔くのは冬が始まる頃で雨期に入る11月中旬、つまり今の時期になります。

 本文の続きの10節以降の内容には、たとえ話が神の国の秘密を教えるためであることや種を蒔くというのは神の言葉を伝えることであるとの説明があります。しかしながら神の国とは何か、その秘密とは何か、その中身は何かなどについては具体性がなく疑問が残ったままとなります。
 イエスのこのたとえ話を聞いていたこの日の聴衆は神の国について分かったのでしょうか。話自体は分かりやすい内容ですが、それと神の国とを結ぶのは無理があるように見えます。ですから13節のたとえの説明が始まるところはその理由と思われる言葉から始まっています。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」、そしてたとえの説明として、「道端のものとは」(15節)、「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである」(16節)と続いています。しかし、これらの内容はイエスの説明というより原始キリスト教の最たる目的、いわゆる福音宣教に重点を置いたものであり、そのためこのたとえ話を最初においたという印象です。八節に良い土地に落ちた種は30倍、60倍、100倍となると書いてあります。確かにそうであり、ありがたいことです。マルコがこの文章をまとめていた時の原始キリスト教の状況は確かにそのようでした。一人のイエスが死に、数多くのキリスト者を得たということです。しかし、この読み方で今日における日本の教会の現状を見てみますと、教会が種を蒔いているどころか、蒔くべき種を食べているような状況に近いのではないかと思います。
 古代と現代と種の蒔き方は異なるところも多くあると思います。聖書の場合はばら蒔きです。種が落ちた場所を四つの異なる場所に分けて説明していますが、そのように語っている背景にはパレスチナの土地はとても荒れた地で石も多く、夏の間は雨が降らずに乾燥が続いているところです。ですから、この個所はばら蒔きのやり方では蒔かれた種が良い土地だけでなく、芽生え育ち難い場所にも落ちるリスクは常に持っていると理解するだけでも十分だと思います。そうではなく原始キリスト教の説明のように、種が落ちた場所を細かく分けて話をしますと、それは何らかの形で評価や差別を呼び起す可能性が十分あると思います。そしてそのような解釈は神の国を教えるよりも、話を聞いている人を傷つけてしまう結果になると思います。結局このたとえでいう神の国とは何なのかに戻ります。
 ここでもう一つ、そもそもイエスの前の大勢の聴衆は、或いは今この聖書を読んでいる私たちは、蒔かれた種なのか、種を蒔く人なのかという疑問です。確かに聖書を素直に読みますと蒔かれた種と理解した方が正しいと読めます。しかし、そうだとすれば神の国はいろいろと区別や結果における格差を認めてしまうことになります。この話を聞いている人にはそれぞれが持っている能力やその結果を問うことになりますがそれでいいのでしょうか。
 しかし、種を蒔く人として理解しますと、原始キリスト教が求めていた福音宣教とも繋がりますが、神の国の説明にもつながると思います。イエスが最初の弟子であるシモン・ペトロとアンドレ兄弟を誘った時に彼らは漁師でした。117節にその誘い文句がありますが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とイエスが言ったと書いてあります。決して魚に、漁船にしようとは言っていませんでした。同じようにイエスは人々に種を蒔く人になりなさいと話したと思います。種を蒔く人から、または土壌や蒔き方から考えますと、蒔かれた種が良き土だけでなくいろんなところに落ちるという無駄やリスクがあることは当然のこととして受け止めざるをえません。それを承知の上で彼らには蒔いた種の何十倍の収穫を得るという希望の話として受け止められます。同時に世の中には種も蒔かないで収穫を期待している人もいます。その批判も込められているかも知れません。このようにたとえ話を理解した時に初めて種まく人が神の国のために働く人というイメージが浮かびます。
 ここで種まく人の観点からこのたとえ話のオリジナル解釈を試みました。私自身も驚き興奮し昨晩はあまり眠れませんでした。
 まだ種まきの時期を少し前にした農閑期だったと思います。大勢の人々がイエスの言葉を聞こうと集まりました。中には地主の人もいましたが、ほとんどの人は土地を持っていない民衆でした。彼らは土地を持っていたが借金などの理由で土地を手放すしかなかった人、先祖から土地を受け継いでいなかった人など、これらの事情をイエスも知っていました。さて彼らにイエスの種を蒔く人のたとえ話はどのように聞こえたでしょうか。
 この前にルツ記を読みました。嗣業の土地をナオミとルツが取り戻す話です。嗣業の土地に対する考えは大変重要な律法の掟ですのでイエスの話を聞きに来ていた人々の心の中にもしっかりと根づいていました。猫の額ほどの土地でも種を蒔ける土地があればと思いながら聞いていたと思います。福音とは神の国の教えであり、その中身はすべての人があの世ではなくこの世で神と共に生きることを意味します。しかし、当時はローマと領主ヘロデが支配している時代でした。土地改革の話はできません。多くの人がそれを願っていてもその話は反逆に連なります。しかし、種を蒔く人のたとえ話ならばどうでしょうか。
 ルツ記の話では贖いについて重点的に考えました。キリスト教では贖罪信仰ばかり教えていますが、聖書では新旧約を通してもっと広い意味での贖いについて教えています。ルツ記は一人の女性であり、寡婦であり、外国人であるルツ、世の中で最たる弱者を象徴するルツの物語は彼女が他人の畑で落ち穂を拾う話で始まっています。そして、最後は彼女が種を蒔く人となったという話で終っています。その種まきはダビデとイエスという子孫にも連なります。贖いとは失われた主権などを回復することです。そのために旧約では土地の贖いも罪の贖いと同じほど重要なことと教えられます。種を蒔くという意味は贖いの運動に参加することと思います。百人町教会の50年間目指してきた贖いの運動であります。その歩みは今の世界で種を蒔く存在として生きることと思います。それが贖われた人の生き方と思います。そして、続くべきことと思います。(2020118日証詞より)

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